マレーシア移住(13)~逃げ道断たれる、無謀な独立

<前回>

 ついに私の身体に異変が生じた。通勤電車に乗ると、吐き気や目眩がして、会社の入り口をくぐるのが苦痛で仕方ない。不眠が続き、悪い夢も見た。

 上司がルールメイカーである以上、私には勝ち目がない。どんな手強い競合他社からでも顧客を取る自信があっても、社内となれば私の無力さが無残に露呈する。残される選択肢は、会社を辞めるしかない。人材会社数社に登録し、転職先の斡旋を依頼した。しかし、海外転職は、そう容易ではない。

 最後に残される唯一の道は、独立して海外に出ることだ。とは言っても、どのようなお客様を相手に、どういう商売をどういうふうにやるか、創業資金や運転資金はどう調達するか、生活資金は確保できるか、何1つ目途も立っていない。

 「一杯、行きましょうか」

 悶々とした毎日を元気なく過ごしていると、本部長から食事に誘われた。本部長はなかなかの酒豪で、何回も一緒に飲んだことがある。その日も例によって酒が進むと、いよいよ話題が仕事の話になる。

 「立花君、気持ちはよく分かる。あなたが中国や香港で大変苦労したことも、部下を束ねて『立花商店』をやっていたこともよく知っている。それで素晴らしい業績を挙げたことも皆見ている。そういうことを言うのもなんですが、その『立花商店』の背後に、常にロイターという大きな看板が付いていましたね。それを忘れないでほしい。もし、それでも『立花商店』をやりたいんだったら、やったら良いと思う。ただ、今度は、会社のデカイ看板をはずして独りぼっちでやることになりますよ。苦労しますよ」

 本部長が語る「大企業看板論」はまったくの正論である。私は会社を変えることができない。変えられるのは私自身だけだ。ただ大企業の看板を下ろしてやる覚悟が必要だ。当時の私は、酔った勢いで言い放した。「私、人生に一度自分の『立花商店』を作ってみます」

 翌朝、上司と本部長の机上に、私の退職願が置かれていた。

 2000年6月30日、私は、サラリーマン生涯に終止符を打った。もう、毎日憂鬱な気分で会社の玄関をくぐることはなくなると思うと、肩から力が抜ける。「大企業よ、私は、必ずやってみせる、必ず成功してみせる」、心の中でつぶやきながら、悲劇のヒーローを気取った気分に酔いしれる自分は、不思議な高揚感に包まれる。

 会社に背を向けて街に1歩、2歩と、踏み出す。東京の街は、いつものように、車の騒音、早足で歩くビジネスマンたちで熱気に溢れている。私は一瞬茫然とした。さあ、どこへ向かうか。行く先がない。行く先を考えていると、歩くスピードが落ちる。すると、右からも左からも1人、2人、3人と次々と早足で先を急ぐ人たちに抜かれていった。突然、私からは、先にあった高揚感がきれいに消え去った。取って代わられたのは、自分がこの街から排除された孤独感だった。次第に、孤独感が恐怖感に変わってゆく。

 駅近くのカフェに腰を下ろし、気を取り戻す。これからやらなければならないことを一つひとつ手帳に書き出し始めた…。

 多くの起業家のように、緻密な計画を立て、事業資金を用意してからの独立や海外移住ではなかった。四方八方の逃げ道を1つまた1つ断たれる中での背水の陣だった。

 起業資金は退職金の300万円余り、資産は3年間償却済みの古いノートパソコン1台、社員は私と妻の2人。預金を取り崩しながら生計を維持できるのは、1年程度。2001年の夏までは勝負。それまでに事業を軌道に乗せることに失敗したら、路頭に迷うことになる。

 当座の生活資金は、失業保険で当てることにし、私はハローワークに通うことにした。会社で加入していた年金も脱退し一時金をもらい、ロイターの社員持ち株も全数売却した。少しでも手元の運用資金を増やそうとした。

 旅行などはもちろんできなくなった。豊かな生活は過去になった。友人に誘われても理由を作って飲み会を断った。今後の事業や生活の見通しがまったく立っていない。焦る気持ちを隠しながらも、妻から聞かれるとどう答えるか分からないため、それらしきムードになると、慌てて話題を変えたりもした。しかし、妻からは、一度も聞かれたことはなかった。彼女は黙々と家事をこなし、仕事の手伝いに没頭していた。

<次回>

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