貧困女性は餓死か売春か、「現実」と「倫理」の選択

 ある若い貧困女性は、餓死から逃れるために、唯一できることは、売春。さて、餓死か売春か、彼女はどっちを選ぶべきか。という質問をすると、多くの日本人は、「ほかに何とか生き延びる道を探す」と答える。

 唯一という条件を無視して第3の道を持ち出すのは、餓死という「現実(リアリティ)」と売春という「倫理(モラル)」の二択から逃避するためだ。私だったら、躊躇いもなく、「売春」という選択肢を選ぶ。たとえ、その女性が自分の身内であってもだ。

 「現実」と「倫理」の選択。

 中国は人権侵害の悪であるから、日本人はたとえ生活コストが3割上がったとしても、中国サプライチェーンを断ち切るべきか。今まで、この質問に真正面から答えてくれた日本人は1人もいなかった。人権侵害という「倫理」、生活コストアップという「現実」の選択である。結局、ほとんどの日本人は、「倫理」に目を覆って、黙って「現実」を選ぶわけだ。

 「現実」を選ぶことは、何も間違っていない。大方の人はそうするだろう。私もその1人。ただ、ほとんどの日本人は明確に口から言えない。それどころか、「倫理」を声高に唱えながらも、矛盾する「現実」を抱え込む。言ってみれば、「倫理という建前と現実という本音の背離」である。

 私は徹頭徹尾のリアリスト(現実主義者)であり、ずけずけと「現実」を剥き出すと、「立花さん、それは事実ですが、言い過ぎ」と言われたりする。事実である以上、言い過ぎということはないだろう。要するに、普段隠されてきた「現実」が、いかに自分たちの唱える「倫理」に反しているか、痛々しく抉り出されたからだろう。

 日本社会は、モラリズム社会だ。いや、正確にいうと、「日本的モラリズム社会」である。日本的モラリズムの特徴とは何か。特徴その1、なんでもモラルの問題と考える。特徴その2、そのモラルは、しばしリアリティ(現実)を隠蔽するためのモラル(倫理)だったり、「本音」を隠蔽するための「建前」だったりする。

 さらに、日本的モラルの中身は、個別性や多様性を否定し、同質性・均一性・絶対性をベースとする標準化された「共通のモラル」、いわゆる「世間様の基準」であることがほとんどだ。そういう意味で、日本社会は本物の自由・民主主義の多様性を体験したこともないし、その多様性を拒絶してきた全体主義社会である。

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