クリスマスだ。クリスチャンであるフィリピン人のメイドに「メリークリスマス」と挨拶をしたところ、大変喜ばれた。私はクリスチャンではないが、クリスチャンの友人や関係者にはクリスマスの挨拶を行うようにしている。ただ、自分自身がクリスマスを祝う気分になることはなく、特別なイベントも設けず平常通りに過ごしている。

一方、妻はどうしても祝日気分になり、家をさりげなくクリスマスらしく飾り立てている。理由を尋ねると、「年末だし、何となく祝日気分です」との答えが返ってきた。この理由は理解できる。彼女の行動を止めるつもりはなく、むしろ飾り付けを「きれいだね」と褒めている。
妻の行動は、宗教的な意図ではなく、季節や社会のムードに同調した「年末行事」の一環としてのクリスマスの捉え方である。宗教色が薄まったクリスマスの楽しみ方が、無宗教者にとっても自然に受け入れられる形で広がっていることがうかがえる。
最近、マレー系ムスリムのドライバーが運転するGrab車内でクリスマスソングがBGMとして流れていたことに驚かされた。ドライバーにその理由を尋ねたところ、「何となく、気分的に」という答えが返ってきた。一神教であるイスラム教のムスリムが、宗教的な背景を持つクリスマスソングを気軽に流していることは予想外であった。
これは、クリスマスが特定の宗教行事という枠を超え、「何となく楽しい」「祝いの気分になる」という普遍的な感覚を引き起こすイベントになりつつあることを示している。
クリスマスが他宗教の人々や無宗教者にまで広がり、「ユニバーサル・ホリディ」として受け入れられるようになった理由は何だろうか。この現象の背後には、商業化やメディアの影響、社会の多様性があると考えられる。一方で、こうした現象は宗教行事の本来の意味を失わせる側面もあるが、それ以上に「楽しい雰囲気」を共有する場としての価値が高まっている。
この現象は、時代とともに進化する文化行事の一例といえるであろう。では、他宗教はなぜ「ユニバーサル化」できないのか。イスラム教やヒンドゥー教は教義が厳密であり、特定の儀礼や規範を信徒に強く求める。これにより、宗教行事が商業的・文化的な形で普及しにくい。
クリスマスにはツリーやサンタクロース、贈り物といった宗教色の薄い普遍的な象徴がある一方、イスラム教の断食(月)や巡礼(ハッジ)などは宗教的背景が強く、非信徒への受容性が低い。さらに、キリスト教はローマ帝国や植民地政策を通じて広範囲に広がったが、イスラム教やヒンドゥー教は地域的な拡大に留まった。この歴史的経緯が文化的影響力の差を生み出した。
産業革命以降、ヨーロッパは技術革新と経済力を背景に世界を主導し、その文化的影響力を強めた。植民地政策を通じてキリスト教や英語が広まり、教育や法制度を通じて西側文化が現地文化を圧倒した。ハリウッド映画やポップミュージックが西側文化の象徴としてグローバルに広がり、人々に普遍的な価値観を浸透させた。
文化の浸透には軍事力や経済力、技術的優位性が大きく寄与したが、最終的には他者に受け入れられる要素を持つこと(柔軟性・拡張性)と共感されやすい象徴を備えていること(普遍性)が必要条件であった。クリスマスは宗教色を超えて楽しいイベントとして受け入れられる一方、他宗教行事はこうした柔軟性や拡張性、普遍性が不足しており、普遍化のハードルが高い。
一言でいうと、西側白人文化がわれわれの暮らしの「デフォルト仕様」になったのである。




