● 監視・牽制機能の不在と制度腐蝕
会社なら、権限を持つ者には必ず監視者がいる。取締役を監査役が、監査役を株主が、株主を市場が監視する。つまり利害関係の緊張関係によって、統治が自律的に安定する仕組みが存在する。
ところが、民主主義では民こそが最終権力者であり、民の上には何者もいない。したがって、「民を誰が監視するのか」という問いは、民主主義の宿命的な構造欠陥を突くものである。宗専制国家であれば君主が、監視の最終装置として機能する。しかし民主国家には上が存在しない。ゆえに民は自らを監視するしかなく、内なる倫理と知的成熟こそが唯一の監視装置となる。
だが現代社会では、民の多くが無知と感情に流され、SNSで怒りを消費し、ナショナリズムを娯楽化することで、監視の自己崩壊が起きている。多数が正義を名乗った瞬間、正義そのものが暴力に転化するのである。
では、教育でどうにかできるのか――と思うだろう。
教育は「権力の外部」に位置し、体制を相対化する理性を育てる営みであった。しかし近代以降の国家は、教育を制度化することでそれを囲い込み、理性の育成を装いながら、忠誠と服従の回路を民の内部に埋め込んだ。すなわち、教育は啓蒙の名を借りた精神の統治技術に変わったのである。
現代の教育制度は、批判精神を削ぎ落とし、「正しい答え」を速く出せる人間を量産する。だが、正しい答えを出せる者ほど、間違った前提に疑問を抱かない。そこに支配の核心がある。民は教育によって支配の形式を「内面化」し、服従を「理性的行為」と錯覚する。こうして教育は、民を賢くするどころか、支配に自ら協力する愚民を効率的に育てる仕組みへと変貌した。
したがって、「教育で民を賢くする」という理想は、現実には支配者の欺瞞にすぎない。権力が教育を掌握した瞬間、教育は真理の探求をやめ、美辞麗句のプロパガンダを語るだけの道徳講座になる。自由・平等・民主――これらの言葉さえ、体制を正当化するための飾りに過ぎない。民は教育によって考える力を失い、「考えたつもり」のまま投票し、怒り、群れる。
ゆえに、教育は制度の中で民を啓蒙することはできない。むしろ支配階級によって「教育の名を借りた馴化装置」として完成されている。だからこそ、希望は体制の外にしかない。少数の異物が、教育という装置を逸脱して生まれ、同調圧力を逆撫でするように真理を語るとき、そこに初めて理性が再生するのである。
民を監視するのは民全体ではなく、その中に混じる少数の異物――沈黙せず、同調せず、嘲笑と排除に耐えながらも真理を語り続ける者である。彼らは制度ではなく現象として現れる。
しかし、民主主義においては「数」が正義であり、「多」が「真」を圧倒する。ゆえに、少数者の理性は制度的に敗北するように設計されている。民を監視する異物は存在しても、彼らには報酬も権限も与えられない。それどころか、真理を語るほどに孤立し、冷笑と侮蔑の的となる。つまり、理性的少数者には、民主主義のゲーム内で生き延びるためのインセンティブが存在しないのである。
この構造こそが、民主主義の自己腐蝕機構である。大衆は「正義」「共感」「多様性」といった美名を掲げながら、異論を感情的暴力によって封殺する。投票という儀式は数を力に変換するだけで、思考の質を測定しない。したがって、民の暴走を止めうる少数者は制度的に排除され、残るのは安全な沈黙か、冷笑による内的亡命である。
こうして、民主主義は理性を栄養にして成長したにもかかわらず、成熟すればするほど理性を駆逐していく。理性なき民意が絶対化したとき、政治はもはや統治ではなく情動の代理戦争に堕する。少数の理性は勝てない。しかし、彼らが完全に沈黙したとき、民主主義は自壊する。だからこそ、その沈黙の中に微かな反逆としての「思想の火種」を絶やさぬこと、それが残された唯一の抵抗である。制度の内部では勝てないが、制度の外部から歴史を動かすことはできる――それが異物の宿命である。

● AI時代の教育
AI時代、馬鹿を賢くするのではなく、馬鹿でも食える社会にするのが重要だ。
AI時代において、「教育」はすでに時代遅れの制度である。必要なのは「教育」ではなく「学育」である。教育とは、上からの知識注入であり、国家が労働力を育成するための統治装置であった。学育とはその逆であり、個体が自ら学び、自己を形成し、社会に依存しない主体となる過程である。AIが知識伝達を完全に代替できる時代において、人間に残されるのは「学ぶ意志」と「考える力」だけである。教育は管理のための制度だが、学育は生存のための態度である。
教育の目的は、長らく「馬鹿を賢くすること」であった。しかし、その前提はすでに崩壊した。AIが全知に近づくほど、人間の知識差は意味を失う。どれほど勉強しても、AIに一瞬で追い越される。ならば、愚を矯正する努力よりも、愚でも生きられる仕組みの方がはるかに価値がある。すなわち、「賢くなる教育」よりも「生き延びる保障」に公共財を回すべきである。
ベーシックインカム(BI)は、この発想を最も合理的に体現している。馬鹿でも、病人でも、才能がなくても、飢えずに生きられる社会。それは「平等の幻想」ではなく、「文明の持続装置」である。AIが生産を担い、人間が消費を担う時代において、社会を支えるのは教育ではなく購買力である。教育はもはや社会のエンジンではなく、ノスタルジーでしかない。公共財の投入対象は、知の育成ではなく、生の維持であるべきだ。
したがって、教育の再定義とは、「人を社会に適応させる訓練」から、「人を自らの生に立たせる支援」への転換である。国家の役割は、すべての人を賢くすることではない。すべての人を、少なくとも生かすことである。AIが理性を代行する時代、人間が保つべき尊厳は「知ること」ではなく、「生きること」である。
結論として、AI時代の文明は「教育社会」から「生存社会」へと移行する。賢さの分配ではなく、生の分配が社会正義の中心となる。馬鹿を賢くするよりも、馬鹿でも食える世界をつくること――それこそが、人間がAIと共存するための、唯一の倫理的かつ現実的な道である。
● 史上最低の日米首脳会談
「史上最低の日米首脳会談」――佐藤優氏の評、それ以上でもそれ以下でもない。今回の件、つまり「日米首脳会談で共同声明も共同記者会見もない」という異例の事態について、佐藤優氏がすでに明確に指摘している。彼の分析は、単なる形式論ではなく、外交実務の内部構造を踏まえた非常に鋭い見立てである。
佐藤氏の主張の核心はこうである――。
共同声明も共同記者会見も行われないということは、両国間で文書化できるほどの合意がなかった、あるいは文書化を避ける理由があったということを意味する。つまり、両国が「大成功」と発表しているのは、政治的演出であって、実質的には米国側の要求を日本が一方的に受け入れた、もしくは合意文書にできないほど不均衡な結果であった可能性があるという見方である。
外交の現場では、共同声明というのは単なる儀礼ではなく、「相互の合意を法的・政治的に拘束力をもって残す」ための装置である。これがないということは、外交成果を明文化できなかった、あるいは明文化すると国内政治的に不利になる内容が含まれていた、ということを意味する。
佐藤氏らしい読み方をすれば、こう言い換えられる。
「大成功」と言葉を繰り返す時、それは外交的に何かを隠している兆候である。実際、彼はこれまでも外務省の現場出身者として、形式や儀礼に現れる「沈黙のサイン」を読み解くことで、政権の対米姿勢を批判してきた。今回も同じ構造である。日本政府が形式を捨てたのは、外交上の自主性をさらに狭めた結果だと見るのが、佐藤氏の立場であろう。
言い換えれば、「共同声明なき日米首脳会談」とは、形式を持たない「従属的合意」の証拠であり、「大成功」という自己賛美は、政治的説明の空白を埋める音声的演出にすぎない、ということである。要するに、外交とは「何を話したか」よりも「何を発表できなかったか」に真実が宿る。
● 日本人の性善説と性悪説
日本人が「人は善である」と言うとき、それは村の田んぼを守るための方便である。
中国人が「人は悪である」と言うとき、それは草原を渡り歩きながら命を守るための知恵である。
――両者の違いは「DNAの差」ではなく、「畑か草原か」という生活環境の差でしかない。しかし、ことはそう単純ではない。
日本人は表向きには「性善説」を唱える民族である。人は善であり、和を重んじ、信頼関係で社会が成り立つと口にする。しかしその裏側に存在するのは、極めて陰湿な性悪説的行動である。
組織の内部に入れば、同僚を蹴落とし、足を引っ張り、陰口を叩き、情報を隠し、失敗を喜ぶ。これらの行為は「人は善である」とは到底言えぬ、人は悪であることを前提とした生存戦略にほかならない。この矛盾は、終身雇用と年功序列という制度構造によって固定化されてきた。椅子の数が限られる以上、昇進はゼロサムであり、誰かの成功は他者の失墜を意味する。
したがって「成果を出すこと」よりも「ライバルを潰すこと」が合理的選択となる。結果として、性悪説的行動は組織にとって最適化された戦略となり、逆に性善説的建前は欺瞞として利用されるにすぎない。愛社精神もまた、建前にすぎない。会社のために尽くすという美徳の裏側で、組織政治は常に愛社精神を否定している。
社員は会社を信じているふりをしながら、実際には会社に寄生し、制度に依存し、内部抗争によって自己利益を追求する。すなわち、日本の組織とは「性善説を語りながら性悪説で生きる」二重構造に支配された社会である。
● 立花は右か左か?善か悪か?
ある方に言われた――。「立花さんは、親中反米で左翼と思ったら、今度は天皇へ大政奉還と極右も真っ青。一体何なんですか」と。だが私は繰り返している。右も左も、所詮は愚民を支配するための「分断統治」の道具でしかない。イデオロギーを熱心に唱えるのは愚民にラベルを与えて群れさせるためだ。
私は一貫して「民思いの名君制」を語っている。親中反米も、天皇大政奉還も、その軸上にある。左翼か右翼かなどという区分は無意味だ。歴史を貫くのは名君か暗君か、ただそれだけである。愚民にはこの単純さすら見えない。だから「右か左か」と混乱する。しかし歴史の眼を持つ者は、分断の外に立ち、名君を基準にすべてを測る。
「右か左か」と聞かれて答えるなら、「私は保守本流である」と言えばよい。ただしそれは、現代の劣化した保守の模倣ではなく、歴史を背負った正統の保守である、という意味においてである。
私は現実主義者である。事実を直視する。私自身も生身の人間である以上、貪欲、怠惰、虚栄心といった性向を一通り完備している。しかし、他人より一歩進んでいる点がある。それは、私はこの事実を率直に認めていることである。多くの人間は美辞麗句を口にして自らを偽装するが、私はその虚飾を拒む。
人間の本性は克服すべき対象ではなく、バランスを取るべき対象である。そして、その事実を認める姿勢こそが、他人より誠実性において一歩進んでいる証である。




