ブルネイ(9)~自律依存性論で語る宗教共産主義国家

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 ある意味で、ブルネイは世界一成功した共産主義国家だ。

 共産主義とは、財産の共同所有で社会の平等目指す。素晴らしい理念だが、最大の問題は二つ。過程自律依存性と結果自律依存性と、私が名付けた。

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 まずは、過程自律依存性。富を創出、形成していく過程に一人ひとりの人間(国民)が自律的に努力し全力を挙げて頑張るかどうかの問題だ。私有財産の消滅や規制、分配の均等性といった要素によって、頑張っても頑張らなくても結果が同じだ。そうなると、頑張る意味を見出せなくなり、動機付けと努力の自律性を失ってしまう。

 次に、結果自律依存性。財産の共同所有と分配を司る特権階級が自律的に、過度な私利私欲を図らずに平等・公正に富の分配を行うことができるかどうかという問題だ。資本主義のような監督・抑制機能(他律)がなく、完全な自律に頼らざるを得ない。そこで富の総量にも関係してくる。総量が少なければ少ないほど特権階級の貪欲さが目立ち、国民の貧困が進む。北朝鮮がその好例だ。

 ブルネイの場合、最大な特徴はその富は、労働の質と量への依存性が非常に低いことだ。来る日も来る日も石油や天然ガスが湧いてくる(採掘という労働は必要だが)。黙っても買ってくれる客が世界中にいるから、汗水たらして頭を下げて営業する必要性すらない。すると、富形成の過程自律依存性問題はおのずと解決していく。これについては、私が今日のブルネイで目撃した国民の平均勤労意欲の低下現象がまさにその裏付けとなる。

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 さて、結果自律依存性の問題はどうであろう。ブルネイの特権階級といえば、ハサナル・ボルキア国王とその一族になる。国王自身がスルタンというイスラム教の絶対的地位をもっている権威要素を看過できない。この権威は神によって裏書きされ、揺るぎないものである。

 つまり、権威性は神聖性に起源する「王権神授説」がその根拠となっているのだ。ならば、イスラム教への絶対的信仰が王権の存続を担保する基盤であり、ブルネイという国家を完全なるイスラム教国家にする必要があることは自明の理だ。現にブルネイは世界でも有数の敬虔なイスラム教信仰国であることに異論はなかろう。さらに前回で述べたような、鞭打ちや断肢などの残虐な刑も含むイスラム法の徹底そのものも、宗教上以外に政治的な意図は一切ないと言い切れるのだろうか。

 ブルネイと北朝鮮の比較は必ずしも妥当でないかもしれない。だが、ブルネイでの見聞で私の脳裏をよぎるのは北朝鮮それ以外のなにものでもない。核が石油や天然ガスに取って代われ、主体(チュチェ)思想がイスラム教に取って代わられるだけだ。

 視覚的な相違は、偶像崇拝くらいだ。北朝鮮は国中いたるところに金日成や金正日の肖像が掲げられているが、ブルネイでは国王像が街中に見られるわけではない。これもひとえにイスラム教の偶像崇拝禁止によるものではなかろうか。スルタンというアラビア語は「権威」を意味し、宗教の担保によって絶対王権が確固たるものになった以上、むしろ偶像崇拝不要はある意味で権力基盤の強さを誇示するものになろう。

 宗教共産主義国家――。矛盾の融合というパラドックスである。

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