★立花聡の研修会への受講生派遣に先立って~研修受講の学習効果を如何に向上させるか

 受講料を払って、何と教材どころか、詳細の資料すらない。私の研修会には、教材を配布しない場合がある。そうすると、時々このようなクレームがやってくる。お気持ちはよく分かる。特に現地社員の方が多い。しかも、学習熱心な方がほとんど。教材がないことに強く失望感を抱く心情はよく分かる。

 まあ、その辺、ちょっと怒らないで、理由を説明させてください。

● <講師側>パワーポイントを絶対に使わず、板書にこだわる理由

 まず、講師である私から話を始めさせてもらおう。

 私のセミナーや研修会では、絶対にパワーポイントを使わない。白板に板書する。同じ内容を毎回毎回繰り返し板書していると、いかに非効率かと思われることもあろう。しかし、私は決して利便性を図ってパワーポイントを使わないには、理由がある。

 「読む」「書く」。人間が目で文字を追うのと、手で文字を書くのと、その学習効果がまるで違うからだ。

 手で書いている間に、書かれた文字を咀嚼し、その意味を消化していく。さらに、文字が単語になり、単語の連結によって要素関連のフロー図が出来上がると、要素と要素の間の因果関係が浮かび上がり、論理的思考が進み、ロジカルシンキングの力がどんどん鍛えられるのである。その先は、いうまでもなく、論理的な結論を導き出すのが目的地である。

 講師といえども、既存の知識に踏み止まれば、知見の進化を失ってしまう。そういう意味で受講生と同じ、学習者でもあるのだ。私自身も、このように数えきれないほどの回数のセミナーや研修会で、数え切れないほどの回数で同じ内容を繰り返し書いていると、ある日気がついたら、違うことを書いていたのではないかと、自分も驚くのである。ざん新な概念が躍り出し、1つや2つ、問題が解決されていくのである。

 やがて、新しい概念が受講者に咀嚼され、消化され、さらに私との議論をもって次から次へと知見が熟成し、各企業の経営現場で価値を生み出していくのである。

 それが故に、私は「書く」ことにこだわり、明日もまた板書を続けることであろう。

● <受講者側>自分の言葉で「書き直す」、反芻効果にこだわる理由

 受講者においても同じ原理が働く。「読む」より「書く」ことで、学習機能が数段上がっていく。

 一度聞いたことを反芻(はんすう)し、それを自分の言葉で「書き直す」。――これほど効果的な学習法はない。教科書や資料があると、講師のいうことを補足的に書き込んだり、蛍光ペンでハイライトしたりしても、それが自分の認識や知見に瞬時に昇華させることは難しい。

 「頼り」とされる教材があるから、あとから読み返そうと考えても、事後学習は臨場感が薄れるだけに、理想的な効果が得られない。

 ビデオでコンサートを鑑賞するのと、劇場でコンサートを鑑賞するのと、まるで違う。臨場感の違いが大きい。指揮者や演奏者の生の表情、空間に響き渡る楽器の生の演奏音、空気、聴衆の呼吸、最終楽章の演奏を終えた一瞬の静寂とその後の「ブラボー」の歓声、割れんばかりの拍手、そして、指揮者の頬に光る汗と涙・・・。

 インスピレーションからは、感動や啓示が生まれる。学習の愉悦と人生の脱皮を確実に味わえる達成感は、ひとえにその臨場感から生まれる進化を示唆する。

 講師の表情を見ながら、講師の板書を追いながら、情報を吸収していく過程に、私は極力板書の量を最小限に抑え、キーワードだけにする。あとは、ゆっくり話をする。受講生は、そのうち文字情報を速記のような形で書き止めなければならなくなる。速記の技術を持たない人間には、自分で理解して、自分の言葉に置き換える以外方法が皆無だ。

 その自分の言葉や表現による「反芻」は、理解度を向上させるもっとも有効な手段である。

● 人に教えられることは、理解の極意である

 ある知識を学習し、それを身につけたかどうかを検証する最良の方法は、学習者に教えさせることだ。習ったものを、自分の言葉や表現で人に教えられたら、それはその知識を完璧に理解したことを意味する。

 研修会でもらった資料をそのまま展示し、復唱するのではなく、自分が起こしたメモを元に、人に説明し、教えることである。そうすると、その元となるメモなどの資料が、自分の作成したものであれば、理屈を完全に理解しているため、見なくても話ができるようになる。

 私自身も、コンサルタントになりたての頃、セミナーでは、原稿がないと喋れなかった。原稿に目を落としながら、読み上げるように喋っていたら、「話が一本調子、理屈っぽい。面白くない」とアンケートで酷評されることもしばしばあった。

 その最大な理由は、余所から得た情報や知識をそのまま並べて、人様の思考回路を追っているからだ。そのうち、試行錯誤を繰り返し、やっと悟ったのが数年後だった。情報や知識を自分で徹底的に理解した暁には、自分の言葉に置き換えて表現すること、それ以外の何物でもない。

 これが、理解の極意である。

 さらに、余所の情報や知識を完全に理解し、自分のものになると、次は自分の意見も出るようになる。そこで自分なりの論拠を見つけて外部から摂取した情報や知識を検証し、批判的な姿勢を取り、内容によっては反論することもできるようになれば、やっと一人前のコンサルタントの一歩手前にたどり着く。

 いまは、私はセミナーや研修会では、まったく原稿を使わない。原稿なしで半日や1日話し続けられるのも、ひとえに、理解力と批判的・論理的思考力の成長、そのお蔭である。

 それが故に、受講生にも同じ原理に基づいて、自分の言葉や表現で人に教えられることを求める。人に教える際に使われる資料は、研修会でもらった教材でなく、自分で作ったオリジナルのメモでなければならない。

● 演奏と作曲、ベートーヴェン学の不在

 私の研修会は、2通りある。

 法律や企業法務、人事労務などのセミナー・研修会では、書籍一歩手前の詳細レジュメを資料として配布するが、マネジメント・スキルや営業スキル、リーダシップといった自己啓発系の研修では、大まかな流れを示すアジェンダ以外に、基本的に資料を配布しない。

 両者の研修会の性質や目的が根本的に異なるからである。分かりやすくいえば、前者が演奏で、後者が作曲である。

 法律や企業経営には、一定の根拠や法則に基づき、まるである楽譜を元に、クラシック系のオーケストラだったり、変化に富んだジャズだったり、あるいはポピュラー系の映画音楽だったり、いろんなアレンジを施し演出するようなものだ。

 ベートーヴェンの曲を、現代の音楽家がいろんな工夫して、様々な表情を付与して演奏することができても、ベートーヴェンの曲そのものを作り出すことができない。

 たとえば、営業

 大学の講義では、法学や経営学、会計学といったものがたくさんあっても、「営業学」というものは存在しない。言わせてもらえば、経営学よりも、売上げや利益に直結する営業学があったほうがよほど実用的だとさえ思えてしまう。

 だが、営業学は存在しない。大成功した営業の達人で営業学を学んだという話も、聞いたことがない。

 もし、世の中に、「ベートーヴェン学」ができた場合、どうなるかというと、その学問に沿って、ベートーヴェン交響曲第9番の続編として、10番や11番、12番もどんどん世の中に送り出されることになろう。残念ながら、そんな「ベートーヴェン学」は存在していないし、これからも存在し得ないであろう。

 営業学もまた然り。

● 研修会が目的ではない

 自己啓発系の研修会は、学問の探求ではない。実務における有効性の体現が目的だ。私のこの種の研修会は、大まかな流れがあっても、ディテールが決まっているわけではない。毎回毎回の研修は、受講者の状況にとって、その日に最適なアプローチを取って進めていくのである。

 毎回の研修が違う。

 受講生たちには、ディスカッションの時間を設けている。そのディスカッションから生まれた質問や課題を、その場で生のまま取り上げてスターディにかけることもしばしば。元々講師である私が準備していた内容よりも、建設的で価値を生み出せる、有意義な方向転換ならいくらでも柔軟に対応する。これが、私の研修会の進め方である。

 このような研修会を終えた頃、「ああ、私の考え方、ここが変わった」と受講生が思うことが1つや2つ、3つあれば大成功である。研修会が目的ではない。手段に過ぎない。受講生の一人ひとりに何らかの変化を引き起こすことが目的だ。

 そして、小さくてもいい。1つ1つの量的変化を積上げれば、知らないうちに必ず大きな質の変革を引き起こすことになる。

 私は、このような変革を強く期待している。企業経営者の皆さんも、これを強く期待していることであろう。私はそう確信している。

≪立花 聡≫

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