6月30日(日)深夜羽田発のANA便で、7月1日(月)未明クアラルンプールに帰着。6月は3度の出張で総日数19日間、札幌、京都、東京、上海(2回)に休息を兼ねての河口湖。総飛行距離は3万4000キロ、地球0.85周という計算だ。
河口湖から撮影した富士山
決して自慢話ではない。日本人的には、「世界を飛び回る仕事」が賛辞に当たるが、「世界を飛び回らなくても、世界を相手に仕事する」というのは、今の時代、あるいはこれからの時代に求められるビジネスパーソン像である。
ただバーチャルな世界で得られない実体験という「旅」の真価を決して無視できない。
私は「出張」と「旅行」を区別することに賛同しない。特定のビジネスを目的とする旅を「出張」とするなら、その代替手段ができた時点で、旅の意義が失われ、出張は非経済性の代物にほかならない。しかし、移動の手段を超えて旅の存在意義を見出せば、たとえ単なるレジャーやリゾートであっても、生産的なものになる。
さらにいえば、最近盛んに騒がれる「ライフワークバランス」という概念にも賛同しない。「仕事と生活の調和」というが、「仕事」と「生活」を不調和な二項対立に据えた時点で、根本的なずれがすでに生じていた。「仕事」が「生活」の一部であり、また「生活」が「仕事」の源泉にもなり得るからだ。
サラリーマンという雇われる立場から、「生活」と「仕事」を区別する必要があるかもしれない。ただ人によってはより能動的に、建設的に捉えると、たとえブラック企業だとしても、その過酷な仕事から人生の資産となり得る源泉を見出すことができるはずだ。その源泉を生かせば、人生を変えることだって可能だろう。
「出張」と「旅行」を、「仕事」と「遊び(生活)」に単純に置き換えるよりも、その融合から生まれる波及効果・価値に着目すれば、世界が無限に広がるはずだ。
こんな話をしていると、必ず誰かが「でもやっぱり、仕事と生活は違う。仕事は辛い…」と反論を提起してくる。私はその反論には反論しない。反論しようがないからだ。それはその人の人生観であり、価値観であるからだ。いや、それがむしろ日本社会の普遍的な一般論になっているかもしれない。有給休暇を取って旅行に出かける部下に、「お前、また遊びに行くのか」と眉をひそめる上司がいる限り、すべての発想や進化の可能性が抹殺される。
二項対立は罠である。