年頭のご挨拶~≪特別レポート≫日中不友好・政冷経寒時代の中国経営とアジア・マルチ・サバイバル

 2013年、新年明けましておめでとうございます。

 旧年中に皆様から格別なるご高配をいただきまして厚く御礼申し上げますともに、新しい年の門出にあたり、ご挨拶申し上げます。今年も恒例の年頭挨拶は、昨年同様ビジネスレポートにして掲載させていただきます。

 2012年という1年、在中日系企業にとりまして、何と言っても反日運動が台風の目になっていたことはいうまでもありません。日中関係は、「政冷経熱」の時代から「政冷経寒」の時代に突入した以上、もはや「経済」と「政治」を切り離すことができなくなりました。私たち企業現場においても、「反日」に便乗したストライキが発生し、企業経営に政治的要素がじわじわと浸透してきています。

 2013年は、難しい1年になります。逆風下、不屈の闘志と熱い情熱で難局に立ち向かい、また、こういう時だからこそ、成長の機会と捉え、プラス思考で現場に臨みたいと考えます。皆様においては難関を乗り越え、サクセスを一つひとつ手に入れ、実り多き良き一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

立花 聡
2013年元旦

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≪特別レポート≫日中不友好・政冷経寒時代の中国経営とアジア・マルチ・サバイバル

● 日中間に戦争はあるのか?

 大変な1年だった。振り返ってみると、中国ビジネスにかかわる企業経営者、ビジネスパーソンによって、何といっても、日中関係が最大な問題になった。沖縄県・尖閣諸島をめぐる日中間の一連の争い、これに起源するいわゆる反日デモ、社会的騒乱、さらにそれにとどまらず日系企業に拡がる便乗ストライキやサボタージュ・・・。いま、一見民間の騒乱が収束したかのように見えるが、火種は消えていないし、海上における両国の対峙が静まる気配も見せていない。

 海上だけではなく、領空侵犯も報道されている。日中両国は現時点で、戦争になるとは思えない。また戦争で訴求を解決しようという本気さも見られない。だからといって、戦争にならないとは言い切れるのだろうか。海上や空中の対峙、あるいは外交現場のやりとりが何らかの原因で、ある種不意な事故につながった場合、それが発端で冷戦が熱戦に変わることはまったく考えられないと、断言できるのだろうか。

 「日中間は本物の戦争になると思いますか?」、とある日系企業のトップに聞かれたことがある。私の仕事は日中戦争になるかどうかを予測することではなく、日中間にたとえ戦争になっても企業の被害がいかに最小化し、あるいはいかに被害を受けずに正常な経営をやっていけるようにすることである。

 不特定要素があまりにもたくさん絡んでいる今日の世界、それがゆえに「予想外」や「未曾有」の連発で指導者や経営者が責任から逃れようとしても問題の解決にはならない。いまこのときだからこそ、原点に立ち戻って本質を見出すことが必要なのである。

● 「しこり」と「腫瘍」、日中友好の妄想

 中国の街頭には、「つばを吐くな」「マナーを守ろう」「文明都市を建設しよう」といったスローガンが掲げられている。それはつばを吐き、マナーを守らない市民がいてこそ注意を促し、「文明的な都市の建設」を呼び掛ける必要があったからであろう。

 同じことで、「日中友好」というが、日中が不友好だから、友好を呼び掛けているのだろう。

 日本と中国は友好になることはありえない。私はそう断言する。戦争の歴史が存在する限り、しこりは消えることがあるまい。しこりそのものは症状が和らいだり、発作したりして変化に富んだ経過を見せているが、完治にいたることはありえない。

 「しこり」というが、正体は「腫瘍」である。悪性か良性かは、見る人によって違うが、私はどちらかというと、「良性」だと思う。日中不友好の根源は中国人の「反日感情」にあるとしている人が多いが、それは甚だしい誤解で、中国に対する認識不足に起因しているのだ。

● 反日標語で見る反日運動~「物権がねぇ、人権がねぇ、尖閣の主権だけは争わねばねぇ」

 「腐敗官僚を養っても、住宅ローン奴隷になっても、尖閣だけは放棄しない!」

 2012年9月23日付「大公報」 のウェブサイトが記事「各地の反日デモに見られるスローガン」 を掲載した(http://www.takungpao.com/sy/2012-09/23/content_1148549.htm 2012年10月25日アクセス)。ほかにもいろいろある。

 • 「強拆日本!」
  「日本強制立ち退き!」
 • 「寧可従此当光棍,不要日本女」
  「一生独身しても、日本人女性と結婚しない」
 • 「寧喫蘿蔔白菜,不喫日本料理」
  「大根白菜食い続けても、日本料理を食わんぞ」
 • 「給我三千城管兵,一定收回釣魚島,給我五百貪腐官,保証喫垮小日本」
  「3000人の城管(横暴な役人)よこせば、尖閣を奪還できる、500名の腐敗官僚よこせば、小日本を食い潰せる」
 • 「哪怕喝遍地溝油,也要揮刀斬日寇;哪怕頓頓痩肉精,也要出兵滅東瀛」
  「地溝油(下水油)を毎食飲まされても、刀を取って日本侵略者を斬れ。痩肉精(飼料添加物)を毎食食わされても、出兵して日本を消滅せよ」
 • 「没医保,没社保,心中要有釣魚島;就算政府不要養老,也要收復釣魚島;没物权,没人权,釣魚島上争主权;買不起房,修不起坟,寸土不譲日本人」
  「医療保険もねぇ、社会保険もねぇ、俺ら尖閣さ忘れねぇだ。政府が老後の面倒を見ねぇ、けど尖閣だけは奪還せねばねぇ。物権がねぇ、人権がねぇ、尖閣の主権だけは争わねばねぇ。家も買えねぇ、墓も買えねぇ、土地だけは一寸たりとも日本人に譲らねぇ、よしいくぞー」 
 (「天津浜海100ポータル」 http://www.binhai100.com/read-htm-tid-82811-page-e.html 2012年10月25日アクセス)

 よく読むと、「反日」とセットにされているキーワードに気づくだろう――。「腐敗」「官商結託の地上げに起因する不動産相場高」「立ち退き」「結婚難」「食料品・物価高」「横暴な役人」「食の安全の崩壊」「社会保険・医療保険の不備」「年金問題」「物権問題」「人権問題」・・・、いずれも現在中国に存在する深刻な社会問題である。

 国民の怒りは、少なくとも日本という単一標的に向けられているわけではないことが明白である。

● 「反日のためのデモ」よりも、「デモのための反日」

 米ピユー・リサーチ・センター(Pew Research Center)がまとめた中国民意調査の結果(2012年10月19日付、マレーシア「南洋商報」国際面A28)によると、中国における3つの重大な社会問題に対する国民の不満が年々激化していることが分かる。

 • 「中国の役人の腐敗問題がとても深刻だ」=2008年39%、2012年50%
 • 「中国の貧富の格差問題がとても深刻だ」=2008年41%、2012年48%
 • 「中国の食品安全問題がとても深刻だ」=2008年12%、2012年41%

 北京理工大学経済学・胡星斗教授はこう語る。「過去5年間は、不正腐敗の拡大が経済発展をはるかに上回っている。5年前なら3000万元や4000万元の汚職案件が大きい案件とされたが、いまは1億元単位でも大きい案件といえない。・・・腐敗や貧富の格差問題はすべて権力の濫用と民主権利の欠落にあり、特権階級が巨額の富を積み上げる一方、無権階級が無力のままだ」

 上海交通大学がまとめた「2010年中国危機管理年度リポート」によると、2010年に、比較的に深刻な影響をもつ大きい危機・事件が5日毎に1件発生している。

 中国社会科学院農村発展研究所・于建嶸教授は集団事件を、権利擁護事件、腹いせ・ガス抜き事件および社会騒乱事件と3種類に分類し、「2011年の集団事件がすでに腹いせ・ガス抜き事件から社会騒乱事件へと変わりつつある。それ区別は攻撃ターゲットの違いにある。最近は、「無関係者の財物破壊行為が顕著になってきている」と克明に指摘している。

 中国人民大学社会学・馮仕政副教授は次のように述べている。「多くの人から見れば、集団事件がすでに深刻だが、私から見れば、いま始まったばかりだ。中国の近代化がテイクオフ段階に入って、昔の言い方だと、それが100年も必要でしかも逆戻りできないというが、だとすれば、国家の主導による成長モデルと集団事件が発生する勢いも同じく逆戻りできない。

 中国国民にとって、反日問題よりも身近にある数々の問題により大きな関心を寄せ、不満を募らせている。だが、これらを理由に大規模の集会や抗議活動を行うことは、現在の中国では不可能に近い。ならば、「反日」という大義名分ならばデモを行えるし、とりあえず不満を発露するチャンスを入手できるわけだ。

 だから、ある意味で、「反日のためのデモ」ではなく、「デモのための反日」なのである。

● テロ手口の偽物テロ、反日原理主義者の不在

 イスラム教原理主義者の「反米」をみると、それこそ本物だとわかる。自分の命をかけて自爆してまで反米の意思表示をする。「死」をもって政治理念を貫こうとする人たちだ。中国の反日はいかがなものか。日本航空機でもハイジャックして東京都庁ビルに突っ込んで、右翼とされる石原慎太郎都知事(当時)を殺害する、ここまでの信念、勇気と実力をもつ本物の反日者は中国に何人いるのだろうか。

 中国は「偽物大国」というが、「反日」まで偽物があるとはさぞかし信じがたいものだが、まぎれもない事実だ。反日デモもそうだ。昨年2012年12月16日付の「産経新聞」は、私に対する取材をまとめた記事「『反日』の悪用なお、『幻の市場』への期待は危険」を掲載した。その一節を引用する。

 「『いわばデモのための反日であり、反日のためのデモではなかった。反日は大義名分となって、今後も悪用される』。上海エリス・コンサルティングの立花聡総代表は、中国人の反日への姿勢をこうみる。『イスラム過激派による反米テロと比べたとき、(物質的な豊かさを求める)唯物(ゆいぶつ)主義者の中国人による反日がどこまで厳格か。本質を見抜く必要がある』と話す。

 「立花氏が注目したのは『反日便乗スト』。9月の反日デモに乗じて複数の日系企業の中国工場で従業員による突然のストが発生し、あわてた日本の本社からの指示であっさりと要求に応じてしまったケースがある。しかし、労組が手続きを踏んで行うストは適法でも、『従業員が散発的に起こす山猫(やまねこ)ストは明らかに違法で怠業(サボタージュ)。ルールなきストを集団で行うことはテロに近い』と立花氏はみる」

 マスメディア報道ということもあって、それ以上のコメントを私は控えたが、本音を言わせてもらうと、「テロだって、確固たる政治理念をもっているのだが、便乗ストとは、手口こそがテロに近いが、理念云々語れば、テロリストの足元にも及ばない」

 反日便乗ストライキ。いざ賃金や待遇を引き上げれば、ストが収束する。「反日」は賃金アップで消えるのか。経済的利益を求める労働争議であれば、それはそれで合法的、正当な手続を踏んでやればいいのだが、「反日」を引っ張り込むなと言いたくなる。「反日」は立派な政治理念や立場の表明であり、それを最大限に尊重すべきだが、政治理念の功利主義的な悪用は卑怯で下劣である。

● 「襲わないで、お願い!」、色気隠しの高島屋上海店の寂しい開業

 2012年12月19日、上海市虹橋・古北地区の高級住宅街に、高島屋上海店が静かに、いや正確に言うとこっそりと開業した。通常百貨店の開業に見られる派手な告知やイベントもなければ、バーゲンセールもない。明らかに反日リスクを意識した防御策なのであろう。

 襲われることを恐れる女性が、色気を隠して逃げるように街を去っていくような雰囲気だった。「襲わないで、お願い」というお色気隠しは何とも寂しいことか。さて、昨年末はまだしも、今年(2013年)の8月や9月はどう凌ぐのだろうか

 中国で日本企業や日本人がいじめられている、この種の話はこの頃よく耳にする。

 このような現状を悲しんでいる人、嘆いている人、怒っている人、あるいは一日も早く好転を祈っている人、ないし政府や政治家の作為を呼びかけている人、いろんな人がいる。とにかく状況を変えてほしいと皆考えているようだ。現状を変えるには、二つの方法がある。一つは人を変えること、もう一つは自分を変えること。

 ブログやSNSなど最近鬱憤晴らしのチャンネルが増えているので、ガス抜きには都合がいい。でもなかなか世の中は変わらない。そこで二つ見方に分けて考える。

● 日中友好を阿弥陀仏と思ってはいけない

 正義論からいくと、一人でも多くの人が奮起して声を出さないと、世の中は変わらない。だから、勇気を振り絞って大きな声を出そう。いや、大きな声でなくてもいい。最近流行の「つぶやき」でもいい。では、声を出したからといって世の中は変わるか、それは分からない。でもやらなきゃ始まらない。できるところから始めようじゃないかと。

 経済学的に、要は実利的に考えると、声を出しても世の中があまり変わらないのだったら、無駄なコストを削減しようと。声を出す時間があったらほかに実利を生むことをやったほうがいい。ここに出てくるのは、「人を変えること」か「自分を変えること」かだ。

 ある意味で、人を変えることの不確実性(できるかどうか分からない)と困難さを考えると、自分を変えたほうが早い。でも、原理原則は曲げたくない。すると、自分の変えられるところと変えられないところをまず、明確にして、変えられるところから変えていこうと。

 私は数年前から主張してきたが、いまも変わらない。日中友好なんてありえない。そもそも「日中友好」の定義なんかもあやふやじゃないか。もちろんどんな意味であれ友好はあったほうがいい。商売も儲かる。だが、日中友好があってこその商売儲けだったら、それはある種の他力本願になる。日中友好を阿弥陀仏と思ってはいけない。お寺参りも必要だが、神頼みだけではダメ。神様仏様日中友好様では、あまりにも危なすぎる。

 ビジネスに関して、リスク管理の観点をとれば、結論は単純明快だ。日中友好だろうと、日中不友好だろうと、ちゃんと利益を出し続ける商売は強い商売だ。

 今回の反日は、パラドックス的に(逆説的に)捉えれば、日本人や日本企業にとっていい教材になったと思う。日中友好などの妄信を捨て、より逞しく、強く生きていく力を身につけていこうではないか。

● 切り捨てられたウラジオストクと争われる尖閣

 中国のウェブサイトで見つかった記事(http://blog.sina.com.cn/s/blog_44dfc73c01016jwy.html)を邦訳し、全文転載する。

 「愛国には勇気が必要か、ある人たちには必要で、ある人たちには不必要」
 (「新浪ブログ・財経時評」、2012年12月6日アクセス)

 本物の愛国には勇気が必要だ。国家の本当の歴史、本当の現状を示すには、勇気が必要だ。虚偽の愛国には、勇気が必要ではない。リスクもない、安っぽい芝居で十分だ。このような愛国芝居を上演するには、肝心なのは道具選びだ。ここで一つ簡単な方法を、愛国賊どもに教えよう。たった7文字しかない――反米反日不反露。聖上からの命令でござる――反米反日を許可し、ただし反露は不可とする。

 多くの愛国賊どもはすでにこの聖上の7文字命令を熟練に運用しているのである。たとえば、連中らは「釣魚島」(訳注:「尖閣諸島」の中国名)を騒いでも、「海参崴(ハイセンウェイ)」(訳注:「ウラジオストク」の中国名)にはほとんど触れない。

 この二つの場所は現在いずれも、中国人の統治下に置かれていない。が、果たしてこの二つの場所のどっちが、「中国の固有領土」に近いのだろうか。ここで比較してみよう。

 1.歴史上、中国人がもっとも早く足を踏み入れたのは、海参崴。遅くても唐朝に、中国人がすでにこの土地で活動していたのである。釣魚島は?早くても明朝に遡る。

 2.中国の歴史上の各朝政府による統治。海参崴は、唐朝に渤海により設置された率賓府の所轄に属し、金朝が成立すると恤品路と改称される。元朝になると水達達路管下に置かれ、清朝初期に寧古塔副都統に属し、後に琿春副都統の管轄に区画される。しかし、釣魚島はかつて中国の歴朝歴代によって直接に統治されたことがない。まあ、それもそうだ。これっぽっちの無人島は、当時の人の眼中になかったろう。

 3.紛争当事国が認めたことがあったのか。康熙帝時代の大清帝国とロシア帝国との間で結ばれたネルチンスク条約では、海参崴が清朝に属すと明確に記されていた。中華民国時代に締結された「中ソ友好同盟協定」では、ソ連が中国の海参崴に対する主権を認めると明文規定されていた。しかも、ソ連は1996年までに同地に駐屯するすべてのソ連軍を引き揚げると同意していた。
ウラジオストクの街並み

 4.二つの場所の面積の比較。海参崴は600平方キロメートルであるのに対し、釣魚島はわずか4.3平方キロメートルで、前者の1%も満たない。

 5.二つの土地の価値の比較。海参崴は不凍の天然良港を有し、漁業資源が豊富であるだけでなく、世界的にも有名な観光リゾート地である。釣魚島は天然ガス資源を有する。

 6.二つの場所の現状。海参崴はロシア極東地区の最大な都市、交通中枢、軍事要地である。釣魚島には淡水がなく、いまでも無人島である。

 明らかなことに、海参崴も、「古来中国固有領土の一部分である」。だが、このようにどう見ても中国の領土である海参崴に対しては、中国人はいま、完全にロシア名である「符拉迪沃斯托克(ウラジオストク)」と称しているのである(皮肉なことに、「東方を征服する」という意味なのである)。それだけでなく、2012年になんと首脳がその地まで出向いてロシア主催のAPECにまで参加していたのであった。台湾だけ、大陸人が言っている「符拉迪沃斯托克(ウラジオストク)」のことを、依然として、「海参崴」と称しているのである。

 愛国賊どもよ、釣魚島だけを主張しても、なぜ、海参崴を主張しないのか。実に理解に苦しむ。いくつかの原因が推測されるだろう。

 愛国賊たちは貧しすぎて、高価なナマコ(訳注:「海参崴」の「海参」が中国語で「ナマコ」の意味である)に手が届かず、普通の魚しか食えない。

 (ロシアの)スターリンがかつての義理のオヤジだった。それにしても、義理のオヤジが死んでもう何十年も経ったのではないか。

 南京大虐殺があったから、日本を恨んでいるか?では、江東64屯・海蘭泡大虐殺(訳注:1900年7月16日ロシア軍はブラゴヴェシチェンスク在住の中国人3000人を虐殺してアムール川に投げ込むと、対岸の黒河鎮、愛琿城を焼き払い避難民を虐殺した事件)は忘れていいのか?愛国賊どもがあまり勉強していないせいか、連中らはこういった大虐殺を知らないのである。

 ノミが多すぎて刺さなくなる、借金が多すぎて開き直るというが、土地の割譲が多くなると、どうでもよくなるのか。ロシアが中国から160万平方キロメートルもの土地を奪い去ったことを知らないのか。

 見よ。釣魚島は騒いでいるが、海参崴が泣いている。もっと見よ。ロシアの「符拉迪沃斯托克(ウラジオストク)」は嘲笑している。「東方を征服する」と掲げ、東方のいわゆる

● なぜ、反日不反露か?

 ロシアは「露中友好」など言いますか?中国人民はなぜ、「固有領土ウラジオストクを返せ」と反露デモをやらないのか?なぜ、ロシア大使館に投石しないのか?なぜ、ロシア製品の不買運動をやらないのか・・・。

 えっ、ロシア製品って何?それは原油だったり、電力だったりエネルギー資源だろう。不買運動で日本車をやめても、アメ車も中国車もエネルギーが必要だ、車をやめても、飛行機飛べないし、工事現場も動かない。なるほど、だから反日がOKでも、反露はダメだ。ここで日本の弱点が余すところなく露呈する――。エネルギーもなければ、強大な軍隊もない。あるのは、改正が許されない平和憲法と、コピーされやすい技術、そして衰退する国内市場のみである。

 こういう日本はいかに脆弱であろう。中国は、弱者よりも強者が尊敬される国である。

● 「中国の一番悪いところは人間の悪の部分を呼び起こして利用することだ」

 李登輝氏は「中国の一番悪いところは人間の悪の部分を呼び起こして利用することだ」と指摘している。

 李氏は反中の急先鋒として、その発言に偏向性があるのかもしれないが、では、中国当局、しかも、最高人民法院の責任者の発言を見てみよう。

 2009年7月6日、最高人民法院「目下の情勢下における労働争議紛争案件の裁判活動の実施遂行に関する指導意見」(法発[2009]41号、以下、「指導意見」という)の公布に当たって、民事一廷の責任者がメディアの取材に応じた。その一部を以下抄訳する。

 「『労働契約法』と『労働紛争調停仲裁法』が昨年(2008年)に相次いで施行されてからは、多くの労働者がそれを自身の利益を擁護する利器として、仲裁や訴訟等の方式によって労使の対立を解決しようと乗り出した。労働紛争案件の種類も日に日に増して複雑化していき、人民法院が労働紛争案件を審理するに当たってはますます難度が増してきた」

 上記当局の解説の文言に注目されたい 通常なら、中国の法律用語では、必ず「労働者の合法的権益を擁護するツールとして・・・」という文言を使うが、ここでは、「労働者が自身の利益を擁護する利器として・・・」という言い方に切り替えた。大変注目に値する用語の変更である。

 「自身の利益」とは、利益の性質や正体を特定しない広義的用語であり、「合法利益」と「不当利益」の両方を含む。

 「利器」とは、一般に鋭利な刃物や鋭い武器の総称と解釈されている。中国語の「利器」も同一解釈である。「鋭利な刃物や鋭い武器」は、言うまでもなく攻撃性武器である。

 法律は、「合法利益を守るための盾」である。しかし、ここでは、「不当利益を得るための攻撃性武器」として利用される可能性が示唆されている。これを裏返せば、「相手当事者(企業)の合法的利益を侵害する」結果となる。

 当局者の解説を吟味すると、次のように読み取れる。――「労働契約法」と「労働紛争調停仲裁法」は、労働者に、その不当利益を得るための攻撃性武器として悪用されることがある。それによって、企業の合法的利益が侵害される。現に労働紛争案件数の激増という形で、その懸念がすでに現実となり、且つ状況はますます深刻化する一方である。ある法律は、本来の立法主旨を達成できず、かつ悪用され、相手当事者の合法的利益を侵害する攻撃性武器に変身してしまえば、その法律は、「善法」と言えるのだろうか?

 まさに、李登輝氏が指摘したとおり、「中国の一番悪いところは人間の悪の部分を呼び起こして利用することだ」。しかも、法制度の設計にまで、このような恐ろしいDNAとメカニズムが埋め込まれているのである。日本企業はこれを、知っているのだろうか。

● 「聖域」と「俗世」の利害関係と対立関係の構図

 毛沢東の名言に、「敵・味方の間の矛盾は敵対的矛盾である。人民内部の矛盾は、人民の利益の根本的一致を基として生じた矛盾である」というものがある。

 世の中に、利害関係の衝突があって様々矛盾が生じる。このような様々な矛盾を、毛沢東は、「敵対的矛盾」と「人民内部の矛盾」の2種類に分けた。

 「敵対的矛盾」といのは、敵と味方の間の利害関係の対立である。敵が利益を得れば、味方は損害を受ける。敵対的矛盾は、双方の闘争によって敵対的なものを打ち破ることによって解決される。結果的に、矛盾の解消ではなく、片方存続と片方消滅である。

 中国の現状として、貧富の差が大きな社会的問題として提起されている。貧富の差を「社会の矛盾」と捉える人も大勢いる。なぜ、このようなことが起こったのか、分析してみる。
中国社会のもっとも大きな問題点の一つは、国家・行政による資源の独占と役人の腐敗である。市場経済とはいえども、国家・行政の独占を前提とした環境下で、自由競争は一部限定の域内でしか行われておらず、中国は完全市場経済とは到底言えないのだ。便宜上、国家・行政独占下の領域を「聖域」、開放された自由競争の領域を「俗世」と呼ぼう。「俗世」といっても、「聖域」の独占にけん制され、影響され、時には干渉されており、完全自由競争にはなっていない。

 しかし、「聖域」と「俗世」の利害関係構図の調整は、大きな既得利益集団の命脈に触れることになるため、あくまでもアンタッチャブルである。よって、「聖域」と「俗世」の「矛盾」を存在させてはならない。すると、唯一の方法は、「聖域」に存在する様々な「矛盾」を「俗世」に転化することである。「聖域」はあくまでもクリーンな聖域であって、「矛盾」による泥沼戦争は、「俗世」でやれば良いわけである。

 まず、貧富の差についてだが、「社会の矛盾」として捉えた場合、その矛盾の起因を求めなければならない。中国の場合、汚職や横領などいわゆる不正蓄財が大変多い。それは、ほかでなく「聖域」の存在と法治の不健全に起因している。しかし、この方向にベクトルを向け、追及すると、民主議会政治の不在が原因だということが分かる。ここまでくると、いよいよ「聖域」の存続の正当性が問われ、基盤を揺るがすことになるため、やはりアンタッチャブルである。残される道は一つしかない。「矛盾」を「聖域」から「俗世」に放り出すことである。では、もう少しミクロの世界に掘り下げてみよう。

 社会保険安全網(セーフティーネット)というのは、国家が社会コストを持って整備すべきものであるが、中国は、なるべくそれを企業に押し付けようとする。新「労働契約法」等によって定められた厳格な解雇制限は、その好例である。解雇された人間に社会コストがかかるため、なるべく企業に解雇させない。どうしても解雇するのなら、解雇された人間の社会コストを、企業に負担してもらう。なぜなら、通常解雇される人間は比較的にバリューの低い人間で、その人間の再就職は大変で、どこの企業も雇用したくないだろうからである。非常に幼稚な考え方である。社会保険機能を民間企業、「俗世」にシフトし、それをめぐる各種の「矛盾」もそのまま「俗世」にシフトしていくという基本的な考え方である。

 もっと、分かりやすく言ってしまえば、労働者が失業すると、本来国や行政に抗議するのだが、中国の場合、労働者の失業は、国が悪いのではなく、企業が悪いのである。企業が労働者を搾取する(「性悪説」的に理解されれば)代わりに、就業の保障など企業の義務(本来大きな部分は社会保障の領域に属すべきだが)を怠れば、そのような企業を制限、制裁すべき、「労働契約法」という世界トップレベルの労働者保護の法律を誕生させた。

 ちょっと待って、労働者保護というのは、実に美名であるが、実質的に、労働者を迷惑者扱いし、それにかかる社会コストを企業に押し付けるような代物である。

● 労使関係の「敵対的矛盾」化、「疑似敵対的矛盾」化の罠

 換言すれば、「労働契約法」は、労使関係を単純に、「労弱使強」、「労善使悪」と定義してしまったのである。企業と労働者は、「労働契約法」によって、「狼」(悪の強者)と「羊」(善の弱者)に分類されたのであった。

 「狼」と「羊」の関係は、どういう関係か?利害関係の完全対立で、「敵対的矛盾」の関係である。すべての問題は、ここに起源している。

 「善の弱者」である労働者が貧しかったり、失業したりすると、怒りを「悪の強者」である企業にぶつける。なぜなら、企業が雇用保障を提供しないからだ。これは、時代の逆行である。労働者に雇用保障を提供し、労働者を豊かにしようとし、企業に解雇制限や賃下げ制限をかける。公権力による余計な干渉ほかならない。公権力の干渉によって、市場メカニズムが破壊され、企業が被害者となる。企業がダメになれば、労働者が働き口を失う。外資企業はどうしても中国がダメだったら、ベトナムやミャンマーなど東南アジアに移転すればよいのだが、最終的に損するのが中国の労働者であり、ダメージを受けるのが中国経済である。

 古代中国は、「殺富済貧」という言葉がある。農民の蜂起で、地主や実業家などの金持ちを殺してその財産で貧困層の救済に当てるというものであった。現代では、さすが「殺富済貧」はできなくなったが、その代わりに「削富済貧」の全盛期を迎えた。「殺す」ではなく、「削る」である。いずれにせよ、強制手段又は準強制手段によって「俗世」領域内において富の再分配を行う基本的理念も変わっていなければ、「富」と「貧」の「狼・羊」関係も変わっていない。「敵対的矛盾」の関係なのである。

 「富」と「貧」の「敵対的矛盾」は、そもそも、「階級闘争」なのである。「階級闘争」とは、生産手段の私有が社会の基礎となっている階級社会において、階級と階級との間で発生する社会的格差を克服するために行われる闘争。マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」(1848年)においては、「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と明言し、階級闘争は社会発展の原動力として位置づけられている。当然ながら、このマルクス主義理論は、毛沢東思想の基盤をなしていると言っても過言ではないし、鄧小平もかなり階級闘争的な思考モデルの持ち主だった。いまでも、階級闘争の潜在意識をもつ中国人は決して少数ではない。

 いざ、労使間の対立が、「狼・羊」関係の構図ないし「敵対的矛盾」が成立すると、大変厄介である。

 いちばん怖いのは、「狼・羊」関係の構図が立派にできているのに、企業がその存在を意識していないことである。現に、多くの企業は、善良であって決して「狼」ではない。「狼」ではないから、「狼・羊」関係の構図が成立しないと考えるのは甘い。「狼」ではない企業は、牙も要らない、走るスピードも要らない。だが、ある日、「狼」ではない企業が何らかに原因で「狼」と誤認されたとき、どうなるのか、自分を守ることはできるのか。

● 哲学なき人民、日本人の戦後の自虐史観形成の根底

 李登輝氏が語る、「中国の一番悪いところは人間の悪の部分を呼び起こして利用することだ」に対して、日本人はどこまで理解しているのだろうか。

 その根本的な原因は、戦後の日本人の自虐史観に起源しているものと思われる。太平洋戦争での敗戦により、GHQによる統治が行われる中で、日本の歴史学界や教育界の一部などでは、占領政策を支え、GHQに迎合するかたちで、なぜ敗戦に至ったのかという視点から過去への反省がなされることとなり、その過程で戦前の日本国民が共有していたすべての価値観は根底から覆され、否定される事になった。

 橘玲氏がその著書「(日本人)」(日本人をカッコに入れる)に次のように分析し、解説している。

 「戦争に明け暮れた『戦前』と平和を愛する『戦後』は、日本人が世界でもっとも世俗的な民族だということから一貫して説明できる。・・・(中略)戦前の日本人にとって、台湾を植民地化し、朝鮮半島を併合し、満州国を建国することは、生計を立てる選択肢が増える『得なこと』だと考えられていた。彼らはきわめて世俗的だったからこそ、熱狂的に日本のアジア進出を支持したのだ。 しかしその結果は、あまりにも悲惨なものだった。大東亜戦争(日中戦争から太平洋戦争まで)の日本人の死者は300万人に達し、広島と長崎に原爆を落とされ、日本じゅうの都市が焼け野原になってしまった。 これを見て日本人は、自分たちが大きな誤解をしていたことに気づいたはずだ。戦争は、ものすごく『損なこと』だった。朝鮮戦争やベトナム戦争を見ても、アメリカは自国の兵士が死んでいくばかりで、なにひとつ得なことはなさそうだった。・・・(中略)日本人の「人格」は、岸田のいうように戦前と戦後(あるいは江戸と明治)で分裂しているのではなく、私たちの世俗的な人格はずっと一貫していたのだ」

 日本人は、終戦を境に倫理観や価値観を180度的に急転換したものではなく、もともと「損なことをしたくない、得なことをしたい」という世俗的人格をもっていたのだと、橘氏が説いている。これで戦後の日本人の自虐史観を解釈すると、文脈が通じることになる。

 つまりは、戦前の日本は周辺諸国に対する植民地化や併合で生計を立て、得なことになったので、その行動が正当化され、国民から熱狂的な支持を得た。だが、その後敗戦になった。敗戦してみると、戦争で最終的に大きな損をした。だから、戦争を放棄し、今後は絶対的な平和を求めるとともに、過去は間違ったことをしたので、とことん反省し、戦前の価値観、行動様式を根底から覆し、否定することになった。いわゆる戦後の日本人の自虐史観の始まりなのである。

 橘氏の説には一定の説得力があるが、私は完全に賛同しているわけではない。日本人の世俗的な人格がまったくないわけではないが、さらにそのうえに、強固なお上意識、お上願望が複合的に絡んでいることは決して無視できない。親分任せ、他力本願といった村社会の基本ルールによって、「個」としての批判的思考の放棄に至ったのである。その辺、「愚民国家」「愚民政策」と批判する学者もいるようだが、ある意味で文脈的に賛同せざるを得ない部分も多いだろう。私自身も時々使うのだが、「愚民」という響きは決してよろしくないので、「親分信託」や「国家信託」といったマネジメント学っぽい用語がより洗練されていて上品であろう。

 日本国民として「個」のレベルにおける哲学の勉強と批判的思考の形成については、ほとんど奨励されることもなければ、その教育もなされていない。

 「我日本古より今に至る迄哲学なし」、「哲学無き人民は、何事を為すも深遠の意無くして、浅薄を免れず」。明治の福沢諭吉と同じ時代に生きた思想家・中江兆民が死期を悟った後に残した言葉(「一年有半」より)である。

 橘氏の日本人「世俗論」を追及すれば、哲学なきがその病根ではないだろうか。

● 「戦争のできる日本」と「解雇のできる企業」

 安倍晋三新総理が示した憲法改正、集団的自衛権行使および国防軍創設の道筋は、中国と対等な対話を行う上で、重要な担保となる。その手の話になると、すぐに「タカ派」とか「右寄り」とか指摘されたりする。要は軍といえば戦争を連想し、自虐史観が復活する。まさに、非論理的な思考回路である。

 「戦争のできる日本」と「戦争をする日本」とは、必然的因果関係にない。「戦争のできる日本」は客観的事実であって、「戦争をする日本」または「戦争をしない日本」は主観的判断に基づく。「戦争のできる日本」は、ある意味で対中交渉の場で強いカードとなる。中国が本当に恐れているのは、果たして「戦争をする日本」なのか、それとも「戦争のできる日本」なのか、よく考えてほしい。

 企業においては、まったく同じだ。

 いまの中国労働法制度の下で、企業にとって解雇が極めて難しくなっている。そこで、私は企業に何としてでも解雇制度の構築を強く提言している。同じ原理である。「従業員を解雇できる会社」と「従業員を解雇する会社」は必然的因果関係にない。

 ある日、「従業員を解雇できる制度」は不要だという某A総経理がいた。A総経理は、その理由として二つを挙げた。「わが社はいままで解雇しないといけないような悪い社員がいなかったし、いまも状況が良好だ」。そこで、私はさらに一つの質問を追加した。「では、明日も将来も解雇しないといけないような悪い社員がいないことを、保証してくれますか。いや、私にではなく、次期総経理に保証してください。また、会社に保証してください」と。A総経理の顔が真っ青になった。

 私は一瞬に思った。この会社で、真っ先に解雇、あるいは降格すべき従業員はほかでなく、このA総経理だ。論理的な思考力がない人は経営者の資質を備えていないからだ。

 世にもユートピアが存在するとしよう。その理想の国では、殺人もなければ凶悪犯罪もない、善良な国民ばかりだ。そこで、いよいよ「刑法」を廃止しようという議論になった。同じ質問、今日のユートピアは明日もユートピアか?

 解雇制度は、解雇をするための制度ではない。解雇制度は、解雇を可能にする制度だ。

● 中国人富裕層に捨てられた中国を信じますか?

 一連の数字を見てほしい。2000年~2011年の間に中国から海外に不正流出した資金が合計約3兆ドルに上ると米シンクタンクが試算した。流出額は年々増加傾向で、中国の国内総生産(GDP)の1割弱に相当する規模が海外の闇に消える。専門家は「秩序維持は持続できない」と警告する。

 2012年8月5日付英フィナンシャル・タイムズ紙は中国の財政事情に触れ、「中国収支バランスが急速に悪化すれば、機能障害を起こす金融システムが深刻化する圧力に直面する。また2007年以降、中国の投資は毎年国内総生産(GDP)の成長率を6%上回るペースで拡大している。今後、中国が投資以外に、経済成長を維持する手段がなければ、1年以内に投資規模が現在の外貨準備高を上回り、5年以内にすべての外貨準備高が使い果たされる」と指摘した。

 2012年8月1日付中国「財経網」によると、中国社会科学院経済・政治研究所の国際金融研究室の張明・副主任は、現在、毎月平均約203億ドルの資金が中国から海外に流出しているとの見解を示した。張副主任の試算では、2011年第4四半期から2012年第2四半期まで、累計1828億米ドルの資金が流出した。世界金融危機発生直後の2008年第4四半期から2009年第1四半期まで、月平均で141億ドルが流出した当時の状況と比べて、現在の資本流出ははるかに深刻化していることが分かる。

 在米中国問題専門家の伍凡氏は、「中国経済および政治制度を悲観視するのは、ホットマネーや海外資本だけではなく、中国民間資本も富裕層の海外移住や汚職官僚の海外逃亡によりどんどん流出している」と指摘した。

 国内経済研究機関の胡潤研究所が発表した「胡潤財富報告2012年版」によると、中国国内では1000万元以上の資産を持つ富裕層人口が100万人に達し、その内の16%がすでに海外に移民した。また44%の富豪は近いうちに移民する計画があり、85%以上の富豪は子供を海外に留学させようとしており、約34%は海外で資産を持っているという。

 この通り、自国も信用しない中国人の富裕層を見て、中国を信用する日本人の根拠と理由はどこにあるのか。

 富が著しく傾斜している中国。その富裕層の多くが資産を海外に持ち出している以上、中国国内の市場は果たしてどこまで期待できるのか、大きな疑問が残る

 中国には、これまで2つの魅力があるとされていた。1つは工場、1つは市場。昨今、人件費など諸コストの急騰によって、工場としての中国はすでに魅力を失った。では、市場としての中国はこれから善戦できるのか、明確な回答が見えていない。

● 「チャイナ・プラス・ワン」というカード

 「チャイナ・プラス・ワン」は語られて久しい。昨年の反日騒動を見て日本企業はいよいよその必要性と切迫性を実感するようになった。反日・日中冷戦の長期化、中国国内人件費諸コストの高騰、中国経済の減速を踏まえ、中国向け投資を見送り、あるいは減少し、ミャンマーなど東南アジア諸国への投資に振り向ける日本企業が相次いでいる。

 中国からの全面撤退を呼び掛けているわけではない。実際に日中間に切っても切れないつ経済的なつながりが出来ている以上、全面撤退は不可能だし、感情的に過激な行動をとるべきでもない。ただし、「チャイナ・プラス・ワン」は絶対に欠かせないし、緩めてはならない。中国は懐柔策が上手な国である。アメとムチをうまく使い分けている。反日騒動が一段落落ち着いたところで態度の軟化を見せることもあるだろう。一方、忘れっぽい日本人はそのまま乗ってしまうと、何回も繰り返しやられる。

 日中間の対話を呼び掛ける人が大勢いるが、中国との対話は、しっかりしたカードを持たなければ、勝ち目がない。「話し合い」を善とする日本人はとても相手ではない。だから、話し合う前にとにかくせっせとカード作りに励むべきだろう。そのカードの1枚は、東南アジアである。これからの日本は、アセアンとの連帯で中国へのけん制を強めるほか道がない。「チャイナ・プラス・ワン」どころか、さらに場合によって、「ワン・プラス・チャイナ」、いや「ツー or スリー・プラス・チャイナ」と、メインとサブを逆転させる必要があるのかもしれない。

● 立花聡の「チャイナ・プラス・ワン」、そして「アジア・マルチ」へ

 最後に、少し私個人的な話をさせてもらおう。私は昨年2012年2月に、3~4年後を目途にマレーシアへの移住を決めた。中国・上海市で起業したのは、2000年秋だったので、かれこれ12年近くも住んだこの街に別れを告げることは、決して思い付きの軽い決断ではなかった。

 そもそも、移住を決断した当時は中国は反日騒動にまだなっていなくて、日中間も穏やかだった。だが、私は一種の不吉な前兆を感じた。まるでアフリカのサバンナ、ライオンの居場所の近くには一種の異様で不気味な雰囲気が漂う、それと同じようなものだった。

 そして9月の反日騒動を見て、マレーシア移住を今年2013年末に繰り上げ、調整を急いだ。もうひとつの重要な決定は、2013年度からミャンマー業務をスタートすることだ。いずれも12年10月から11月にかけての2か月の間に決めたことだった。私が担当していた複数の日系企業は続々とミャンマー進出を内定、発表していたことも強いプッシュとなった。

 11月下旬、私はミャンマー入国ビザを取得し、2013年1月初旬のミャンマー視察出張が確定となった。12月初旬、ミャンマー進出を発表すると、顧客から現地での面会アポがすぐに入った。

 当社は現時点紛れもない「チャイナ・オンリー」組である。長年に渡って中国で蓄積された膨大なチャイナ・データが事業の源泉となっている。いざ、「チャイナ・プラス・ワン」への転換となると、この新たな「ワン」への大きな初期投入だけでなく、現在中国事業の縮小による機会損失をも意味する。悩みに悩んだ末、「プラス・ワン」に踏み切ることを決めた。

 時代の流れ、そして顧客のニーズに応えるのは我々の使命である。2013年、私はクアラルンプールに居を移し、中国とミャンマーの往復出張を繰り返すのが日常となりそうだ。

 最近、中国でお世話になった顧客の幹部から、シンガポールやマレーシア、ミャンマーなどへの異動・転勤のお知らせを受けることが多い。アジアというより広い枠組みで戦略マップを描いていく日本企業の経営者・ビジネスパーソン、そのたくましさと意志の強靭さに敬意を表したい。そして、中国もそもそもアジアの一員である以上、「チャイナ・プラス・ワン」よりも、「アジア・マルチ」といったほうが妥当であろう。

 中国語の重要性も相変わらずだが、何よりもまず英語、そして、アジア、いや世界で通用する普遍的価値観とコモンセンスを身につけ、さらにプラス・ワンまたはプラス・ツーの特定国・地域のオプショナルスキルをもつ、このような人材が求められる時代になっていくだろう。

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