不満・欝憤・怒りにさよなら、コロナ神に畏怖の念を抱こう

 私が住む団地には、先日2人目のコロナ感染者が出た。ジムやプールなどの公共施設が一斉に閉鎖された。マレーシアも日本も同じように、感染が広がり、状況が悪化している。

 そういう時には、一般市民は必ず政府の無能、政策や制度の問題を批判する。日本の場合、最近医療制度に対する厳しい批判が相次いでいる。私もそう思う。日本の医療制度に問題がある。だが、医療制度の問題だけなのか?医療が社会の一角であり、医療制度の問題を生んだのは社会。日本社会全体的問題を生んだのは誰(何)?

 戦後前半の40年、日本人は居心地が良くて問題がなかった(無視した)。後半の30年は居心地が悪くなってきたところで、あれもこれも問題がでてきたと。しかし、時間軸をたどって前後の関係を検討する姿勢があってもいいのではないか。ある意味で、ツケが回ってきた。では、戦後前半40年にわたり恩恵を満喫した年寄りたちの責任を求めていいのか?責任があったとしても、ただ非難するだけで、現実は何ら変わらない。

 だから、我々、この時代を生きる一人ひとりが生き方を変えるしかない。医療問題が1つの症状に過ぎない。病の根源を突き止めてメスを入れられるかどうかは、日本人の知恵と勇気にかかっている。批判や非難、罵るだけでは単なる欝憤晴らしに過ぎない。ちっとも建設的ではない。

 コロナそのものに対する捉え方も問題。コロナはただの風邪だ、煽りすぎだと言っている人たちは、是非その文脈で次の2つを堂々と主張、言明しよう。ただの風邪だから、自粛をやめて経済を回せと。その次が重要だ。それが失敗した場合、誰が責任を取るかも明確にしなければならない。何事も、「理由→結論→責任」というのが一体化されているはずだ。

 因みにその文脈で行くと、「オリンピックをやってよし」ということにもなる。合わせて五輪支持を主張すべきだ。反対ばっかりして、提案なし、責任所在不明ではダメだろう。大人のやるべきことではない。

 コロナについて、昨年後半から、私自身の捉え方が少しずつ変わってきた――。

 まず、当事者の立場から離れ、特に経済的利害関係を切り離して、物事を見る目線を持とうと決めた。次には、成り行き任せのスタンスに切り替え、ストレスを軽減するよう姿勢を変えた。最後に、時代を変えるコロナを千載一遇のチャンスと捉え、能動的に行動しよう(ニーチェのニヒリズム観)というところまできた。

 その裏付けとしては、私のコロナに対する直観がある。コロナは、人間の誰がやっても変わらない(政治家の政策でどうこうなるもんじゃない)。コロナを変えるのではなく、人間が自身を変えるのだ。もしやコロナは、人間改造のために神から送り込まれた使者、いや、コロナ自身が神なのかもしれない。

 傲慢であってはならない。自然には畏怖の念を抱きたい。

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