高市早苗氏の話し方、なぜ魔術に見えるのか?

<前回>

 高市早苗さんの演説も記者問答も素晴らしい。どこが素晴らしいか、少し研究してみた。結論からいうと、彼女は右を左のスタイルで表現し、支配者の論理を庶民のスタイルで表現する、という非凡な技術(ほぼ芸術)をもっている。

 まず、高市さんは「右翼」のイメージが強かったが(これもメディアの操作があってのこと)、実際に話を聞いていると、全然そういう感じはしない。むしろ、文脈も語り口もいささかリベラル的でさえあった。とはいっても、話しの内容を噛み砕いてみると、決して左派でないことがわかる。そこがとても不思議だった。

 単に話術がうまいとか、そういうのではない。論理的な構成というか、ものすごく緻密な基盤が敷かれている。そもそも、右や左というのは二項対立ではないからだ。相互に乗り入れているし、ときにはグラデーション的な世界である。

 保守革命は、確かに相容れないが、保守と改革は、そうではない。保守は、革命という犠牲を排除したい。だからこそ、改革が必要だ。既存秩序内部に存在・増大する矛盾や対立を都度、速やかに解消(改革)し、大爆発(革命)を避けなくてはならない。改革がリベラルの象徴だとすれば、保守にはそうしたリベラル的な成分が内包されていなければならない。パラドックス(逆説的)かもしれないが。

 だから、高市さんの論法は、リベラル的な保守にみえるわけだ。

 次に、高市さんは、IQとEQのバランスが素晴らしく取れている。岸田さんや河野さんたちは、抽象的な、曖昧な、時には情緒的なアプローチを取っている。つまり、IQの不足をEQで補おうとし、あるいは誤魔化そうとしている。不謹慎な言い方だと、それは深い思考をもたない一般市民には一定の効用がある。

 しかし、高市さんは、政策の細部まですべて緻密にしつらえ(無論、それば莫大な量の勉強を下敷きにしている)、粗末な報道関係者が質問すらできないほどの完成度を見せている。その分、左派報道陣は旧態依然で、感情的(EQ)な二択質問を仕掛け、高市さんを倫理的不義に陥れる作戦に乗り出した。

 その手には、高市さんは乗らなかった。完璧なIQ的成果(論点設定や論証、結論導出)に自信のある人は往々にして、堂々と正面から単刀直入な論法を取りがち(それはすでに素晴らしい)だが、彼女はそうしなかった。一般国民目線に置き換えて、ものすごく情緒的(EQ)な表現も駆使しながら、論理的な文脈(IQ)を作り上げていくのだ。その辺は女性ならではの繊細さが見事で現れ、技術から芸術へ昇華したところで、それはもう魔術にみえるわけだ。

 高市早苗総理の誕生を心待ちにしている。

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