物を支配しているのか、それとも物に支配されているのか

 「物而不物、故能物物」。莊子がいう。現代語に訳すと「物にものに(支配)されない者は、万物をものに(支配)することができる」ということになる。そもそもこのような哲学に興味をもつ現代人はごくごく僅かであろう。我らが生きるこの現代世界は、物、ほしい物にあふれてる。

 経済とは、需要と供給の関係であり、その関係をなくして成り立たない。物(財・サービス)を売って(稼いだお金で)また物を買うという循環がいつまでも続いている。経済が回っている。回す必要がある。物が回らなければ、お金も回らない。お金が回らなければ、物も回らない。

 コロナ期間中に「不要不急」な社会・消費活動を制限すると、「経済を回せ」という叫び声があちこちから上がってくる。「不要不急」とは、なくてもいい、すぐにしなくても生存に影響が出ない社会・経済活動を指す。しかし、消費者にとっての「不要不急」であっても、生産者にとっての「必要緊急」だったりする。

 つまりマクロレベルでは人間はすでに物にものに(支配)されているわけだ。物に支配されている以上、万物を支配できないわけだ。莊子いわく「万物支配」とはどういう意味だろうか。人間は物を支配することにより、自由の喜びを得る。万物支配とは最大の自由と幸福を手に入れることである。

 経済社会が発展すればするほど、物の対人支配度が上がる。この世の中に売られている財・サービスの大半は「不要不急」な類にあたる。つまりミクロレベルにおける人間の欲望が膨張した結果にほかならない。豊かになればなるほど、人間はより幸福になったのだろうか。否、むしろ不幸になりつつある。それは人間は物に支配され、物を支配する自由と幸福を失ったからだ。

 しかし一方、人間は自分のなかで失ったはずの、「物を支配する」自由と幸福をあたかも存在していたかのように自己確認をしたい。その作業を手助けしたのは、ソーシャルメディア(SNS)。物を支配している風景をシェアすることで、薄っぺらい「いいね」が集まり、確認作業が完了する。

 そのサイバー空間(プラットフォーム)に「物を支配したい」「物を支配した状態を確認したい」といった欲望が充満している。それが「物を売りたい」者にとって商機以外の何ものでもない。莫大な広告費が続々とGAFAたちのポケットに流れ込む。

 「物而不物、故能物物」。莊子がもし今日に生きていたら、ご自身が超然たる物の支配者になり続けられるのだろうか。

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