民主制も独裁制も同じだ、救いの神はいずこ?

● 民主主義の敗北

 私はずっと1つの疑問を抱えている――。

 民主主義の言論自由とは何か?反民主主義を語り、呼び掛ける言論自由が含まれているかだ。それを容認しないならば、はっきり言ってもらいたい。民主主義の言論自由は、反民主主義以外の言論自由であり、民主主義という前提・枠組内の自由だと。

 それが言えなかったり、それを濁したりするならば、民主主義それ自体もそもそも名ばかりの排他的似非民主主義にすぎず、結局民主主義を偽った独裁主義ではないだろうか。

 民主主義対独裁専制の戦い。民主主義が絶対的優位性を持っていれば泰然自若のはずだが、そうなっていない。今、米国西側の民主主義は必死になって独裁制を否定し、独裁的手段で独裁を制裁しようとしている。

 それはつまり、民主主義は腐敗し、余裕を失った。決して独裁の勝利ではなく、民主主義の敗北である

● 独裁専制の強み

 有事・戦時にどっちが強い?民主国家よりも独裁国家が断然強い。統制が絶対必要だから。しかし、今の日本は戦時モードすら持っていない。どうやって戦争するのか?戦時モードとは、「全員黙れ、従え!」が前提。

 民主主義は「他律」を極力排除し、高度の「自律」を求めている。中国の「ゼロコロナ」の解除は正に好例。しかし、中国人民はまだまだ、「他律」を必要としているのに、無理矢理「自律」を強いられた。解放してわずか1週間で、感染が爆発し、病院も葬儀場も満杯になった。

 「人民の、人民による、人民のための統治」とは理念であり、実際にやってみると、人民の意思決定(民意)が人民の利益ないし生存を脅かす場面も少なくない。

 理念生存の優先順位は、はっきりしている。まずは、生存。理念とは、「あるべき姿」「何のために存在するのか」の弁明で、存在を前提とする。理念は、高次レベルで、私は最近企業コンサル現場では、むしろ低次の生存戦略にフォーカスしている。

 理念は「生き方」なら、生存は「生き残り方」である。

● 神に近い者

 ソクラテスが民主政治下で不当な裁判によって処刑された。民主政治は民衆の私利私欲によって自浄力を失ったとき、衆愚政治と化す。

 独裁制の問題は、統治者という個人・少数の私利私欲の放縦にあるのに対して、民主制の問題は、大衆という多数の私利私欲の総和とその暴走にある。問題の中身は同じだ。つまり人間の私利私欲である。このように、民主制も独裁制も同じ問題を抱えている以上、善悪の価値判断をするのが妥当ではない。

 プラトンは民主政治への疑念を抱き、様々な思索を巡らせた結果、哲人政治の思想へたどり着いた。哲学を学んだ者(哲人王)に権力を与えることによって、私心無き統治を行わせようとプラトンは考えた。

 哲人王とは、私の言葉に変えると、「限りなく、神に近い者」にあたる。神は、人間社会のあらゆる利害関係(凡俗)から超脱して物事を見るからこそ、神と言える。可能だろうか。そんな哲人王が存在し得るのか。私は否定的だ。

 しかし、われわれ一人ひとりという「個」のベースにおいて、神に近い位置に到達することによって真の思考を手に入れ、個の福利改善には大いに役に立つものだ。

 神に近づくために、自分の価値観、固定観念、利害損得を無にして肉体の自分から超脱しなければならない。自分の敵の行動にも同感し、納得する境地に達していれば、無我かつ無敵の存在に至る。「無」とは、東洋の宗教も西洋の哲学(ゼロベース思考)も共通する至上の境地である(「無我」と「無」は違う)。

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