昨日のコンサート。シベリウスの『フィンランディア』。言及するまでもない、名曲中の名曲。19世紀末のロシアの圧政に反抗し、フィンランド人の愛国心を高揚させるこの曲は、私独自の感覚かもしれないが、いささかロシア的でさえあった。
2010年8月、ヘルシンキ大聖堂前
11年前のフィンランド旅行の際にも、同じ感覚があった。ヘルシンキの街は、どことなくロシアの面影が感じられる。特にサンクトペテルブルクに似ているようにも思えた。
私にとって、『フィンランディア』はその延長線上にあって、ロシアの面影があってこそ、脱却しようという強い力が生まれるのである。そこからどうしても連想してしまうのが、我が日本が中華の強い影響を受けながらも、常に脱却欲望が付きまとってきたことだ。
ただ、その脱却欲望は単なる欲望にとどまり、日本はフィジカルな植民地支配を受けた体験がないことから、フィンランドのような強い反抗のパワーになっていない。『フィンランディア』のような曲(『ジャパンニア』と名づけよう)は、日本人作曲家によっては決して書けないだろう。
序奏では金管楽器による重々しい「苦難のモチーフ」があって、次第に激しく盛り上がり、「闘争のモチーフ」に受け継がれ、金管楽器とティンパニによって打ち鳴らされる。そして、激しい闘争の調べで盛り上がったあとに「勝利のモチーフ」が現れ、曲が一気に高まっていき、クライマックスを迎えて力強く終わる。
原版の歌詞をみると、「夜の脅威を追い払う」「夜明けを迎える」「朝の光を呼びかける」「夜の力を軽蔑する」「抑圧のくびき、奴隷制を捨てる」と綴られている。夜があっての朝、闇があっての光、抑圧があっての自由というコントラスト的なモチーフが浮かび上がる。
日本人は習得よりも体得を得意とする民族だ。もしや、闇と抑圧を体得しなければ、光と自由の大切さを理解できないのだろうか。と、『フィンランディア』に耳を傾けながら、私はふと一瞬にそう思った。