日本は資本主義未体験の童貞君、日本人の病的な安心欲求と他責化傾向

● 日本は資本主義未体験の童貞君

 日本人は、新自由主義に批判的だ。新自由主義は、市場原理を偏重し、人々の調和を奪い、過激な競争や格差を生み出す元凶だと思い込んでいる。

 しかし、事実は違う。日本には一度も新自由主義が上陸したことがない。日本は、真の資本主義の初体験が未だにできていない童貞君だ。童貞のくせに、恋愛もしたことがないくせに、かかあ天下を批判し、抗議するのは筋違いだ。

 日本社会全体には真の市場原理に則った競争すら見られない。日本の格差は、新自由主義でなく、縁故主義に起因する。競争でなく、競争の無さに起因する。縁故主義は構造的に既得権益の維持に好都合であり、欠かせないインフラである。

 今の日本の特権階層、その多くは競争を勝ち抜いたのでなく、縁故に根差した既得権益から生まれたのだ。新自由主義は実力だが、日本の特権階層はむしろ馬鹿の方が多いくらいだ。特権階層はその既得権益を維持するうえで、格差の原因を新自由主義に擦り付けている。それだけの話だ。

 日本にもし本物の資本主義、新自由主義を社会のOSとして導入したら、特権階層の少なくとも一部が競争に負け、落ちこぼれる。だから、彼たちはありもしない新自由主義を悪にでっち上げ、「脱却」を声高に唱えているわけだ。

 今の日本が必要としているのは「新・資本主義」ではなく、「真・資本主義」だ。

● 日本人の病的な安心欲求と他責化傾向

 しかしながら、日本人はそれを拒否している。なぜなら、日本人は病的に「安心」を求めるからだ。一方、真・資本主義は「安心」どころか、「不安」を提供する。競争だから、不安だらけだ。日本社会が「安心」を善としているが、安心の由来を混同している。

 リスクへの備えができた時の安心は、「真」の安心
 リスクのないことを願った時の安心は、「愚」の安心
 誰かが守ってくれると信じた時の安心は、「偽」の安心

 大方の日本人は、「そうあってほしい」という主観・感情と「そうなっている、そうなる」という客観・現実を混同しているか、置き換えている。

 故に、日本人のリスク管理・危機対処能力が非常に低い。いざというときになって被害を受けたら、「未曾有」「想定外」で自己責任を逃れ、他者を「悪」として批判し、被害の他責化に余念がない。「自己責任」を嫌う日本人は自分の運命を他者の善意と采配に委ねているからだ。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という日本国憲法前文は、自身の安全と生存を他者の善意に託している。それは、精神的独立の放棄、自主的去勢にほかならない。去勢された日本はついに生涯童貞の運命を甘受するほかない。

 平和を嫌う国民はいないだろうが、利益と平和を天秤にかけた時点で、公正も信義も定義が変わってくる。それが戦争の原点だ。虎視眈々たる諸外国がこういう日本人の姿を目の当たりにして、すっかり安心しただろう。それは「悪」の安心だが、「真」の安心でもある。日本を負かす準備がもうできているからだ。

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