日本人の幼稚性、なぜ投稿が制限されたか?

● 日本人の幼稚性

 「中国人に学べ」と私が言ったら、「私は中国人にはなりたくない」という日本人が多い。犯罪学を学ぶのは、犯罪をするためでなく、犯罪を制するためだ。それだけ簡単な原理もわからないのか。中国人も日本人を嫌っている人が多い。しかし彼たちは日本人から懸命に学んできた。

 だから、中国が日本を凌駕しても、日本はいつまでも経ってもリベンジできない。いつまで経っても「お前が悪いんだ」と罵る。「悪」は価値判断。「強」は事実認識。日本人はいつまで経っても、価値判断(べき・べからず)で自己欺瞞し、事実認識(である)から逃げている。これが致命的だ。

● なぜ投稿が制限されたか

 ――上記は私のフェイスブックへの投稿。しかしこの投稿は、一旦、フェイスブックに制限され、警告を受けた。異議を申し立てたところで、受理され、約1時間後に制限解除・表示再開された。

 制限については、他人通報があった可能性、と、AI自動検索に引っかかった可能性がある。どっちなのか、それはわからない。いずれにしても、センシティブな話題だったことに間違いないようだ。

 フラットな社会になればなるほど、些細な「差」でも目立ってしまう。それが時と場合によっては「ヘイト」や「差別」に捉えられたり、さらにその種の事象を利用されたりもする。

 そうした「誤制限」からも、いろいろと学べるので、大変感謝している。

 補足すると、この投稿は、文面の切り取りをすれば、日本人差別にも、中国人差別にも捉えられたりするかもしれない。ただ対立項の同時二重差別はあり得ないので、差別でないことが簡単に証明できるわけだ。

 本質の抽出と批判は、痛みが伴う。その痛みは決して差別から来たものではない。病から来ているのである。病人の入院や感染者の隔離は差別でなく、治療のためだ。

● 通報者のシナリオ

 通報か。私のフェイスブック投稿が制限された(審査結果はシロで、制限解除、表示再開になった)ことについて、「通報」によるものではないかというコメントがある。「通報」の場合、通報者にとっては2つのシナリオがある――。

 シナリオ1、通報が成功した場合、立花が投稿制限・警告を食らったのを見て、しめしめとつかの間の喜びを味わうことができる。あるいは自己正義感の実現にも喜びを感じるだろう。

 シナリオ2、通報が失敗した場合、立花の投稿制限が解除され、表示再開を見て、いささか挫折感を味わうことだろう。さらに私のこの「意地悪な」補足を見て、挫折感が一層強まるかもしない。

 だが、通報者はなぜ自分の通報が通らなかったのか、「敗因」を追及すると、自分の成長につながる。逆に、通報が成功した場合、私にとっても成長の良いチャンスになる。なぜ違反とされたかという「敗因」を追及するわけだ。

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