某マレーシア人経営者L氏家族と火鍋会食。台湾情勢や日本の核汚染水放出、時事時局の会話になると、L氏はこう切り出す。「この世界中は、ほとんどの混乱はアメリカが作り出したものだ。アメリカがいなければ、もっと平和な世界があったはずだ」。まったくその通りだ。続いて日本の話になる――。
「戦後の日本は立派な技術立国ができて、立派な経済大国になったのに、なぜ独自の判断もなく、アメリカの言うことを何でも聞いてしまうのか?」
思い切って痛いところを突かれた。終戦処理にアメリカがいかに戦略的に日本を属国化するために仕組んだのか、すこし長い解説を挟んで「行き着くところ、Lさんが提示してきた問いに、ほとんどの日本人は気付いていない」と私が説明した。なぜ、外国人のL氏が気付いたことに日本人は気付かないのだろうか。
その説明には、だいぶ時間がかかる。一言にまとめると、それは大方の日本人は、生きる意味よりも生きることが大事だからだ。そこで次の問いが浮上する。「だったら、なぜ汚染水を海に流すのか?」。なるほど、ごもっともだ。生きることが大事なら、海に汚染水を流さないはずだ。
「生きる意味が分からない人たちは、生き方を考えることもできないからだ」と、私はここまできて自分も気がついた――。生きる意味を考えずに、生きることだけに専念しても、結局のところよく生きることができないのだ。「つまり?」「つまりは、愚民だ」と、結論にたどり着く。
生きる意味を考えることは、哲学だ。哲学喪失症にかかった日本人は、一生懸命よく生きようとしているように見えても、実はその効率が悪く、たくさん損しているのだ。支配者がもっとも恐れていることは、被支配者が哲学を学び、「なぜ」を問うことだ。日本人の場合、まさに支配者の思う壺。
福澤諭吉『学問のすすめ』一節――。「西洋の諺に『愚民の上に苛き政府あり』とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり……」
「政治が悪いのは、国民が馬鹿だからだ」。――福翁がもし今生きていたら、多分、哲理に満ちたこの一言だけで叩き潰されていただろう。要するに、哲学を語ることができなくなった世の中だ。日本人が哲学喪失症にかかった時点で、幸福への道は閉ざされたのである。
では、マレーシアはどうだろうか。L氏との対話が続く――。「マレーシアは、親米と親中のどっち?」という私の質問に、「親中」と、L氏は単純明快。国益がしっかり定まっているから、歴代政権は与党が変わっても、国益だけは変わらない。ブレない原点である。
日本よりもマレーシアの政治、国民の「生きる本能」がはるかに成熟している。アメリカに利用されることなく、独自外交で小国ながらしたたかに生き延びている。もちろんイスラム教の存在も大きかった。生きる意味を哲学的に考えなくても、「既製品」である宗教がある程度道しるべを示してくれるから、ありがたい。
素晴らしい対話だった。L氏に感謝する。