ドリアンを食べる、臭さを感じなくなったとき

 スレンバン現地の友人が我が家にドリアンを差し入れ、「食べたくなったら、いつでも言ってください。持っていくから」と、田舎ならではの厚い人情。そしてそれも田舎ならではの美味しさだろうか。クアラルンプールで食べたドリアンよりはるかにおいしいのだ。

 臭さが全く感じられない。上等なコニャックのような芳醇で濃厚な香り、シルクのような滑らかでクリーミーな口当たり、口中いっぱい広がる、喉元にまで染み込む甘美な楽園の味、まさに天国に昇り詰めた幻覚に包まれる瞬間である。昼下がりのひと時、プールでいただくドリアン。もう至福としか言えない。

 ドリアンが臭い。臭いものが食べられない。私もかつてその1人だった。今から思えば、なんでこんな馬鹿だったのか。もっと早くドリアンに目覚めればよかった。「とにかく食べてみたら、絶対に美味しいから」と、ドリアン愛好家の妻に幾度となく誘われたが、あの強烈な匂いに撃退され、果実の神様に近づく機会を失った。

 嗅覚の感知が先行し、「とにかく食べてみる」という行動に辿り着けない。いざ食べてみると、あの「臭さ」ほどその味にマッチするものはないという新たな感覚、体験が生まれる。西洋のブルーチーズも、中国の臭豆腐も、同類である。鮮烈なコントラストから無類のハーモニーに変わる。

 マレーシアに移住してから、私はついにドリアンに開眼したのである。果実の神様、ドリアン万歳。