マレーシア移住(42)~金子光晴の日本料理店、ユートピアは成功しない

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 私は文学に興味が薄い。詩や小説たる読み物は全く手にしない砂漠の駱駝だ。故に、詩人金子光晴のこともほとんど知らない。マレーシアの南方にあるバトゥパハという小さな街を旅することで、金子の作品に触れるチャンスを得た。バトゥパハ滞在を記述する金子の『マレー蘭印紀行』にこうした一節が見つかった――。

 「南洋の部落のどこのはずれへいってもみうけられる支那人の珈琲店がこの河岸の軒廊のはずれにもあった。その店に坐って私は、毎朝、芭蕉ピーサン二本と、ざらめ砂糖と牛酪バタをぬったロッテ(麺麭)一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた。これらの珈琲店は、支那本土の茶舗の役目をしていて、休息して汗をぬぐうたり、人を待って商談をしたりするのに利用されている」

 「支那人の珈琲店は、支那本土の茶舗の役目をしている」という用途の記述は正しいが、メニューの内容に至っては中華でもなんでもなく、かなり南洋ローカル化されたものだった。

 南洋の部はここまでとするが、金子光晴は放浪の旅を続け、ついにフランスに到着する。1930年からの1年余り、パリに滞在する間に、美食家といえない金子はなぜか、美食の都パリで日本料理店の開業構想を打ち出したのだった。

 「この中の『日本式の一膳めし』の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で本筋の板前の修業を積んできたといい、森三千代と再会してパリ13区のポール・オルレアンの貸しアパルトマンに住んでいた金子の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢などで、大抵の品はマドレーヌにある日本食品の店にあるが、手に入らないものはマルセイユか、ベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼みこんで、日本船の厨夫長から調達したものだという」(注:森三千代=金子の妻)

 「辻は、『牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。フランス人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ」(『ねむれ巴里』より)

 実に驚いた。今も昔も変わっていない。こういう日本人がどの時代にもいるものだ。「牡丹屋」というパリの日本料理店はどうだったか知らないが、「料理とも言えん料理で法外な金をとって」いたことは少なくとも、ビジネスが成り立っていたことを示唆している。

 そもそもフランス人は、「日本料理のほんまの味」を知る必要があったのか。それを好み、すぐ病みつきになるのか。金子は論理的な検証もないまま、独自の妄想に浸かってそう言い放ったのだった。

 世界の日本料理店「NOBU」とは何となく重なってみえる。正直「NOBU」の料理は、「日本料理のほんまの味」といえない代物だ。だが、ビジネスが成り立っていて成功し、世界に展開した。日本料理といえば、「吉兆」と「NOBU」どっちの知名度が高いか各国で調査してみたいものだ。日本人の「本物志向」はあくまでも自分にとっての本物でしかない。

 ヨーロッパにない食材を輸入したり特別なルートで調達したりすることはよろしいが、コストがかかる。結局のところ、「日本式の一膳めし」屋も法外な金を取らざるを得なくなる。同じ法外な金なら、丼屋よりもまだ「牡丹屋」のほうが金持ちフランス人に売れそうな気がしなくもない。

 日本発の「文化発信」。画家や詩人、いわゆる文化人になればなるほどそこに熱が入るかもしれないが、経営で失敗したら、誰が責任を取るのか。所詮「他人の褌で相撲を取る」の世界だったら何も言えない。金子光晴は詩人として立派であっても、経営者としては失格だ。無責任極まりない。

 結局は金子の「日本式の一膳めし」屋計画は不発に終わった。それで誰にも損害が出ずに美しい夢で終わったのは本当に良かった。そういえば、バトゥパハの支那人珈琲店は「中華南洋式の一膳めし」屋の形態を取り続けながらも、なぜ、100年以上の年月が経っても今なお健在か。詩人金子光晴にとって、市場の本質はいささか理解し難いものであろう。

 文人墨客の理想社会が美しい。しかしそれは実在しない。「ユートピア」という言葉は、ギリシア語の「無」と「場所」に「良い」という接頭語を冠してできた言葉で、「素晴らしく良い場所であるがどこにもない場所」である。

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