太陽のいろんな事実、立花の世界はなぜ景色が違うのか?

● 太陽にまつわるいろんな事実

 私が書いた政治関係の記事に違和感を抱いても、反論できない。と感じる人はおそらく少数ではない。なぜだろうか?

 反論できないのは、私の書いたことが事実だから。違和感を抱くのは、一般メディアが書かない、書けない事実だから。世の中に色んな事実がある。メディアには報じない自由がある。それだけの話。

 太陽は東から昇る。太陽は西に沈む。――どちらも事実だが、「太陽は東から昇る」という片方、1つの事実しか伝えないこともできる。決して、嘘をついているわけではない。それを知った人は、「太陽は昇ることがあっても、沈むことはないだろうか」「沈むとすれば、どの方向に沈むのか」と考えると、自分からもう1つの答えを探しに行く。

 さらに「昇る」や「沈む」といったところから、天動説や地動説を探求する世界に入っていく。あるいは、「もし太陽に住んでいたら、地球はどう見えてくるのだろうか、地球はどのように昇ったり沈んだりするのだろうか」と問いかけ、自分の立ち位置を変えることによって全く異なる景色が見えてくる。

 2つ以上の視座に立ち、2つ以上の視点を持ち、2つ以上の事実を知るによって、自分の世界が一気に広がる。善悪や美醜などの倫理・価値判断はどうでもよくなるのだ。

● メディアは中立ではない

 報道はビジネスであって、神様の広報部ではない。中立性はあり得ない。「中立」という概念はそもそも存在しない。メディア業は、需要(特定の客層)があっての供給、そして何よりもスポンサーの利益が最優先だ。

 記事は企画段階で結果ありき、取材で結果・結論に沿って、都合の良い事実だけを取り上げ、論理を肉付していくのだ。嘘はついていない。都合の悪い部分を報道しない自由があるから、簡単に調理できる。そして、修辞学(レトリック)という技術を施せば、望む通りの記事ができあがる。

 それができないジャーナリスト、愚直に都合の悪い事実も並べて報じようとするジャーナリストは、出世できない。ジャーナリストはただのサラリーマンだから、家族があって給料も出世も必要だ。その点、理解してあげる必要がある。

 さらに言えば、社会科学の学術も同じだ。いくらでも都合の良いデータや統計が取れる。スポンサーのニーズに合った論文はいくらでも書ける。シンクタンクも大学も、ビジネスだ。みんなが糧を得るために、より多くの富を得るために、指示された仕事をこなしていかなければならないのだ。

● 日本に報道の自由がない?

 フランスの非政府組織(NGO)の国境なき記者団が毎年発表している「報道の自由度ランキング」で、日本が「70位」になった。69位のコンゴ共和国以下!マスコミを萎縮させる原因とは何だろうか。日本ではジャーナリストの殺害もなければ、逮捕・拘禁されることもない。せいぜい尾行されてスキャンダルがあれば、週刊誌にリークされるというような「嫌がらせ」がある程度だ。問題はメディアの「自己検閲」にある。

 メディアやジャーナリストが保身や同調圧力、商業主義や権力への迎合という自己都合で、報道すべきことを報道していない、という「報道しない自由」を濫用しているからだ。国境なき記者団が、これを言論弾圧と同じくらい問題視しているのは、まったくその通りだ。

 その根源は、「競争」の消滅にある。日本だけでなく、米国・西側メディアにも同じ傾向がみられる。例えば、中国関係の報道になると、ほぼ批判一色だ。中国が何をやっても悪い。日米・西側の問題や失敗は、みんな中国のせいだと。なぜなら、中国の台頭があって、中国との競争に勝つことがだんだん難しくなり、あるいはすでに負け始めたからだ。

 競争には2通りのやり方がある。「自己強化」と「相手弱化」。今の日米・西側の対中競争は、後者。相手を弱化するには、経済的制裁(半導体禁輸など)と世論的制裁(プロパガンダ)という2形態がある。対中報道の姿勢はまさに後者である。プロパガンダはさらに2形態に分かれる――。相手の悪口を言うのと、相手の良いことを言わないこと。今は両方をやっている。

 しかし、「相手弱化」、相手の足を引っ張る者には、勝ち目がない。相手弱化を仕掛けたところ、逆に相手の自己強化につながるだけ。経済的制裁によって、中国の独自開発・技術自立(半導体等)を加速させているだけ。世論的制裁は、中国の反論を誘発し、その反論で、日米・西側の自己矛盾を暴き出すものがどんどん増えている。そこで、さらに中国の反論を封じる必要があって、「報道しない自由」を動員すると、まさに悪循環だ。

 今の日米・西側社会は、非常に醜い裸の王様だ。情報規制で、大方の人(情弱)が気づいていないだけ。まして、中国との競争を堂々と受け入れて、自己強化する勇気も力量も、日米・西側にはない。

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