哲学史の演奏家たち、作曲家なき思想界

● 哲学を無味乾燥と感じた理由

 近年の哲学界や思想系YouTubeを見ていると、実に奇妙な現象に気づく。哲学を語る者は多いが、哲学する者はほとんどいない。そこにあるのは、哲学そのものの進化や展開ではなく、過去の思想をめぐる歴史談義と人物解説にすぎない。彼らは哲学を「対象」として扱い、哲学を「動詞」として生きていない。

 哲学史談義は安全地帯である。すでに偉大と認められた思想家たちを引用し、整理し、体系化することはできる。しかし、それは哲学を再構成する行為ではなく、哲学を展示する博物館の仕事に過ぎない。真の哲学とは、世界の意味づけを再定義する行為であり、過去の思想を素材として、新たな思考体系を構築する創造的営為である。哲学史は素材であり、哲学は生成である。

 哲学を無味乾燥と感じた哲学入門者は、この手の静態的な哲学史を勉強させられるから面白くないのだ。

● 動態的に哲学する醍醐味

 哲学とは生きた運動体であり、哲学するとき、人はダイナミックな動態的宇宙を見て、興奮で震えが止まらなくなるはずだ。それこそが哲学の生命であり、思想の鼓動である。ただし、すべてが死んだわけではない。佐藤優氏や伊藤貫氏らは、その例外である。彼らの言葉には、過去の思想を単に「演奏」するのではなく、現代という現場で新たに「作曲」しようとする生のエネルギーがある

 彼らの思索は、思想史の延長ではなく、思想そのものの再稼働である。言葉が思想の墓碑ではなく、武器として息づいている。その意味で、彼らは数少ない「現役の哲学家」であり、論じる者ではなく、哲学そのものを生きる者である。

 私自身も、系譜的に哲学を勉強することを好まない。むしろ断片的に、ニーチェだのルソーだのハイデッガーだのといった思想家の説を抜き出し、現実の問題にスポット的に当てはめ、そこから独自の解釈と結論を導き出してきた。

 体系のための体系ではなく、思索のための思索でもない。現実を読み解くための知的ツールとして、哲学を現場に投げ込む。この方法を私は「断片哲学」と呼びたい。哲学を過去の博物館から取り戻し、現実の戦場で再び使用可能にするための実践である。

 ところが今日の哲学系コンテンツは、「カントを10分で理解」「ニーチェ入門」といった消費形式に堕している。そこでは思考ではなく情報が流通し、哲学はエンターテインメントとして「聴くもの」に転化してしまった。それは、哲学を語ることが目的化した「思想の墓参り」であり、新たな命を芽吹かせる営みではない。

● 「演奏」と「作曲」の違い

 音楽でいえば、演奏者だけが残り、作曲家が消えた世界に似ている。ベートーヴェンやショパンの楽譜を完璧に弾きこなす者は多いが、新しい旋律を紡ぐ者はいない。

 演奏がいくら巧みでも、それは他者の思想の再現にすぎず、自らの世界を生み出す創造ではない。哲学史の演奏家たちは、カントの調を再現し、ニーチェのリズムを語り、ハイデガーの和声を分析する。だがそれらは、過去の楽譜の上で指を動かしているだけで、音楽そのものを新しく作る行為――すなわち思索の作曲――が欠けている。

 哲学とは、演奏でも記録でもなく、即興演奏(インプロヴィゼーション)に近い。過去の和声を踏まえながら、その場で世界を解釈し直す。そこに哲学の現在性が宿る。思索が制度化された瞬間、哲学は楽譜管理局になる。音楽が流れを止められたときに死ぬように、哲学もまた、語り継がれた瞬間ではなく、語り直される瞬間にのみ生きる。

 いま求められているのは、哲学史の演奏者ではなく、思想の作曲家である。たとえ不協和音であっても、そこに新しい旋律が宿るなら、それは思索の革命であり、哲学の再生である。

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