宗教と戦争、自己保存の欲望から生まれる原罪や煩悩

 新年早々から戦争の気配だ。サウジとイラン、スンニ派とシーア派の戦い。

 戦争は悪い。だが、なぜか宗教が絡んでいると、「聖戦」になるのか。宗教は神聖であり、神聖なる宗教のための戦争ならば、それが正義の戦争だ。

 宗教の戦争は古代から今日にいたるまで絶えることがなかった。キリスト教の対イスラム遠征軍である十字軍、レコンキスタといった異宗教間の戦争もあれば、シュマルカルデン戦争やユグノー戦争のような、カトリックとプロテスタントの戦い、いわゆる同一宗教内の異教派間の戦争もある。いま対立を深め、戦火の兆候を見せているスンニ派とシーア派の戦いも、周知のとおり同一イスラム教に属している。

 宗教はいろいろあるが、基本的に神の御心に従う「善」を勧め、それに反する利己心や欲望といった「悪」を罰することを主旨とする。勧善懲悪それ自体が、悪の不滅なる存在、そして善の欠落や不足の証明となる。何よりも「聖」の名を冠した戦争を正当化すること自体が何よりも宗教が抱える自己矛盾ではないだろうか。いや、正確にいうと宗教の名を使ったただの闘争に過ぎない。

 A宗教とB宗教が戦争になった。あるいはC宗教のD教派とE教派が戦争になった。A宗教もB宗教もD教派もE教派もみんな自分が「善」、相手が「悪」、自分の戦いが「正義」「聖戦」という。いったい何が善、何が悪、何が正義、何が不正義、すべて相対的であって善悪付ける余地もない。戦争は戦争だ。

 欲望や戦いの抑止、平和の維持を目的とする宗教。ふたを開けてみるとそれ自体が欲望や戦いの正当化に利用される存在になったのである。

 キリスト教の「原罪」と仏教の「煩悩」はどこが違うのか。欲望深い人間が「原罪」を帯びた存在だとすれば、欲望の存在とそれを抑えようとする心の狭間に存在する葛藤や苦悩に満ちた世界が「煩悩」であると、私はそう認識する。結局、「原罪」も「煩悩」も、欲望という存在を認めているところが共通しているのである。

 さらに、イスラム教は生前の禁欲を前提に、その分死後の世界では、美食や美酒や美女の楽園がご褒美で待っているのだと、まさに押さえ込んできた欲望の大放出ではないか。生前の欲望は悪であり、それを抑止対象としつつも、欲望の存在を否定するものではない。欲望が存在しているからこそ、押さえ込むのである。

 人間、そしてあらゆる生物には自己保存の本能、種の保存の本能が備わっている。もし、それが無欲となれば、自己保存も種の保存も放棄され、地球上の生物が絶滅することになる。だから、そもそも、欲望を悪とするのは筋違いである。そこで、内在的欲望の膨張、そして、外在的資源の減少という内外の二要素が争い、戦争を引き起こす根本的な原因である。

 地球と人類が存続する限り、戦争は消えない。これも繰り返しになるが、弱肉強食同様、善悪の問題ではなく、自然の摂理である。

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