【Wedge】働き方改革(15)~「終身雇用」はなぜ、日本社会に定着したのか?

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 5月、経団連の中西宏明会長やトヨタ自動車の豊田章男社長が相次いで日本における終身雇用制度の継続が難しいとの認識を示し、雇用慣行の見直しを呼びかけた。これはもはや、日本産業界の終身雇用に対する「終末期宣告」と認識すべきだろう。

● 「善悪の二極化」は危険

 終身雇用の継続が難しい。これは何も今になって分かった話ではない。数年ないし十数年前から状況に気付いた経営者や従業員は大勢いただろう。ただタブー化された話を誰もが堂々と言い出せなかった。それだけのことだ。今回は財界の大物がそろって明言したことで、やっと事実が確定したという感じだった。

 これを受けて、終身雇用を悪者扱いするような論調も出始めた。終身雇用があたかも日本企業や日本経済の成長を妨害する元凶であるかのように表現すれば、それを切り捨てることへの納得感も得られてよいのかもしれないが、単純な善悪の二極化ほど危険なものはない。まずは失敗の本質を突き止めてから、次の一歩を踏み出すべきではないだろうか。

 必ずしも妥当とは言えないかもしれないが、戦争を例にすると分かりやすい。戦前や戦争を全否定するのは簡単だが、「なぜ戦争に突入したのか」「なぜ戦争に負けた(勝てなかった)のか」「もし戦争に勝っていたら、それでも戦争を否定するのか」を問うには勇気が要る。

 あえて言うならば、日清戦争や日露戦争で日本は戦勝し、大きな賠償金を得たことやアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上したこと、そして戦争で潤った国内経済のおかげで産業が発展し、工業化の第一歩を踏み出したことを目の当たりにして、戦争は儲かる手段だと当時の日本人は安易に考えた。そうした歴史的事実を忘れるべきではない。

 大東亜戦争には日本が惨敗した。それで一転して戦争を全否定する。これもまた思考停止の表れではないだろうか。言いたいのは、「戦争を否定する以前に、なぜ、かつて日本人が戦争を肯定したのか」という問いをタブー視すべきではないということだ。

 少々脱線したので話を戻そう。終身雇用はなぜ、日本社会に定着したのか、これを考えてみたい。

● 「人材育成」の正体とは?

 戦後の日本はひどく弱っていた。経済の復興需要が産業界に大きなポテンシャルを与えた。物不足の時代、人口増加の時代、いずれも大量生産のニーズにつながる。このような経済・社会環境には、終身雇用制度が非常に適合していたことから、うまくいったという通説がある。この辺は、すでに多くの研究報告があり、総論としてはまったくその通りなので割愛する。

 もう少し突っ込んだ話をすると、まず終身雇用制度で企業はどのような利益を得ていたかということだ。

「人材育成」。日本企業であたりまえのように使われている人事用語である。意味を調べると、「将来のために、有用な人物、専門的な知識を持った人物を育てること」(デジタル大辞泉)となっている。もう少し詳しい解釈だと、「長期的視野に立って現実に企業に貢献できる人材を育成すること。単に教育、訓練といった狭義の活動ではなく、主体性,自立性をもった人間としての一般的能力の向上をはかることに重点をおき、企業の業績向上と従業員の個人的能力の発揮との統合を目指す」(ブリタニカ国際大百科事典)と解説されている。

「人材育成」の英訳は、「capacity development」というが、日本語のそれとニュアンスがだいぶ異なる。日本語に訳すと「人間のキャパを開発する」、要するに「器を大きくする」という意味になるが、上記日本語原文の「長期的視野」や「広義的人間性・一般能力の向上」といった含意を持たない。

 文化的に日本語の漢字ルーツである中国語を見ても、「人材育成」という言葉は見当たらない。明らかに、「人材育成」というのは日本企業に特有なシステムといえる。人材育成の最大の優位性は何かというと、「教育投資の効率性」である。

● 日本企業が教育に投資できるワケ

 外資系企業では、従業員の教育研修を投資と見て、つねにその効率性や生産性をモニタリングしている。1人の従業員に一定の教育投資を投下すると、必ずその従業員の貢献・寄与から生まれる利益(リターン)を計測する。固定資産の投資は、減価償却が付きものだ。一度投資した資産について、段階的に費用を分割計上し、その資産の価値を徐々に減額させる。

 従業員の教育研修もこれに似ている。教育研修に投資したのはいいが、その減価償却が終わる前に、従業員が会社を辞めた場合、会社に損害が出てしまう。建物や工場、機械・設備、車両といった定着型の固定資産と違って、人間は特定の企業に縛り付けられることなく、自由に流動できるからだ。

 教育投資のリスクが高い。投資された従業員が会社を辞めた場合、会社は再度人材を募集し、教育しなければならない。その繰り返しは単に投資リスクを積み上げるだけであり、リスク低減の方策はかなり限られている。

 言い換えれば、従業員への教育投資は、「流動的固定資産への投資」である。管理会計的に考えると、その教育投資を「投資」としてではなく、一種の変動費として計上したほうが少してもリスクが低減できるわけだ。つまり、戦略的に「長期的視点」も持たないし、「広義的人間性・一般能力の向上」の分野にもタッチしないのである。研修や教育費はあくまでも、スポット的な変動費として淡々と計上していくだけである。「人生を共に歩む」ほど感情的色彩は一切持ち合わせないし、混入される余地もない。

「Capacity development」という名の通り、会社は従業員のキャパ伸ばしにある程度の教育費をかけても、その見返りとして十分な業務パフォーマンスが認められなければ、残される選択肢は自主的退職あるいは解雇しかない。善悪の判断を抜きにして、一種のメカニズムとして組織のなかに組み込まれた以上、労使間の共同体感覚もそれに付随する感情的色彩もむしろ有益でなく、ときには無益あるいは有害ですらあり、排除されるべきものとなる。

 ここから日本企業の話に入るが、用語を変えたいと思う。これまでは「従業員」という言葉を使ってきたが、ここからは「社員」に切り替える。「従業員」の英語は、「employee」と言い、雇われ者を意味する。しかし「社員」は違う。「company member」である。共同体の存在や連帯感を強く示唆する概念として、感情的色彩を帯びる。

 欧米企業と違って日本企業は、大学を出た新卒者を一斉採用して、「長期的視点」の下で、「広義的人間性・一般能力の向上」の分野も合わせて教育していく。いささか学校の延長であり、人格形成にかかわる機能を企業が引き受ける。これもひとえに、社員の定年退職まで半生以上も付き合っていく労使の「運命共同体」という存在をなくしてあり得ない話だ。であれば、いかなる教育投資もリターンがほぼ確約されている以上、企業は安心して投資できるのだ。

 さらに、その教育投資の大部分は実は、OJTによって行われているのである。先輩が後輩に教えるという、これも非常に日本的な教育方式である。外資企業では一般的にノウハウやスキルは特定の従業員の私有物(無形資産)である以上、競争相手となる他の従業員には安易に教えようとしない。しかし、日本企業は終身雇用制度の下で、このような社員間のスキル的な競争が奨励されていない以上、はじめて実現可能となる。共同体意識が最上位の概念として機能しているからだ。

 それにしても、いくら終身雇用とはいえ、法律ではないし、何ら強制性もない以上、なぜここまで機能できたのだろうか。次回この話をしたいと思う。

<次回>

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