「Jika gagal, maka kita semua akan gagal」(マレー語)。「我々が今回失敗したら、すべて失敗する」という意味の訳だ。一か八かの勝負発言をしたのは、マレーシアのトップ、ムヒディン首相である――。
6月1日から始まった完全ロックダウンは、マレーシアの最後の賭け。「みんな家にいてください。繰り返します。家にいてください。あらゆるSOP(標準手順)を守ってください。みんなこれができなかったら、すべてが失敗に終わります。今回のロックダウンの成否は、みんな、そして神様次第です」
ムヒディン首相の国民向けの演説が素晴らしかった。我が国の首相よりはるかに立派だ。トップには、最悪を描く責任がある。最悪を描けずに最悪を迎えた場合こそが最悪中の最悪だ。それに伴い、国民が受けるショックも大きい。これが今の日本だ。
我が国のリーダーが最悪を描けないのではなく、描かれた最悪を言えないのだ。なぜならば、その最悪シナリオが日本人の「安心」を無残に奪い去るからだ。日本人が日々「安心」の念仏をし、勝手に「安心」を善に仕立て上げたのだ。
「安心」とは、最悪に備えてあらゆる準備ができたところではじめていえる贅沢なものだ。しかし、最悪シナリオに触れただけで、「不安を煽る」と指弾されるのが今の日本社会である。
日本人は、「安全安心」を当たり前のように唱えているが、「安全」と「安心」は必ずしも一致しない。相反や対立すらする場面が多くある。明らかに「安全でない」状況・時代であるのに、「安心」を無理して求めるのが低脳の極み。あえて「安心」が欲しいなら、最悪を想定し、対策を講じ、危険を排除するしかない。
「安全」は客観であり、「安心」は主観である。客観を主観に合わせるのか、主観を客観に合わせるのか、自明の理だ。ムヒディン首相が、我が国の首相より立派だといったが、それだけではない。マレーシア国民も日本国民よりはるかに客観的・理性的で聡明である。