コロナ「陰謀論」を考える

 コロナにかかわる「陰謀論」。本当か嘘かの議論になると、その(陰謀を企む)主体次第だと思う。いってみれば、神の意志であれば、それはあり得る。ただ神の場合なら、もはや「陰謀」ではなく、「陽謀」であり、ないし「神託」「摂理」の世界になる。

 人間集団が人間の意図や意志によって地球規模に展開する整合的な「プロジェクト」としては、その可能性はあまり高くないからだ。偶然性があっても、意図的な「陰謀」によるものとは考えにくい。

 人間の行動は、たとえ「陰謀」であっても、必ず客観的目的(利益)に基づく主観的動機、さらに実行可能性といった要素が絡んでいる。

 たとえば、「世界人口の減少」という利益が仮に存在するとすれば、その実現に数年でなく、十数年ないし数十年かかる長期的利益になる。善悪は別として、この世にこれだけの長期的利益を見据えられる帝王級の人物や集団は存在するのだろうか。私の答えは、ノーである。

 さらに、利益(リターン)に伴うリスクを考えてみよう。「陰謀」であるが故に、極秘裏に推進しなければならない。しかし一方、これだけ大規模の事業となれば、推進には大規模な組織が必要だ。そこで情報が一切漏れることなく、数年、十数年あるいはもっと長い期間に耐え得る組織力と実行力が欠かせない。物理的に無理だろう。

 いうならば、人間の力によるものでは、考えにくいわけだ。ただ「陰謀説」にまったく合理性がないわけではない。その合理性が成立するならば、神によるものであるという説明しかできない。

 つまり、陰謀説よりも、天罰説。われわれ人間はあまりにもたくさんの悪をなしてきた。それに対して神がある種の罰を下そうとしている(下した)のである。

 「摂理」(Providence)とは、創造主である神による被創造物への緻密な計画と深い配慮によって起きていることを指し、キリスト教の人生観を言い表している(ローマの信徒への手紙8:28)。

 ストア派哲学に遡って、第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、その著書『自省録』において「神の御業は摂理に満ちている」と述べている。しかし、われわれ現代の人間はすでに「自省」を捨てたのである。

 キリスト教においては、この摂理という考えは、「カルヴァン主義」として知られている。カルヴァン主義では、人間の堕落ぶりと、神の偉大さが指摘された。カルヴァンによれば、神が創った世界と人間(被創造物)は、神の意思や摂理によって導かれている。神が人間に自由意志を与えたものの、われわれ人間は知の不足に陥り、悪魔の誘惑に負け、神が定めた道(計画)から逸脱してしまったのだ。

 世の諸事、人類史の背後にある神の摂理。それを裏付けるのは、神の意志、御心(みこころ)である。それが、「神の積極的な意志」(A Positive Will Of God)もあれば、「神の消極的な意志」(A Permissive Will Of God)もある。災害など、神が積極的にそれを望んでいるわけではないが、人間の罪ゆえにやむを得ず、それが起こることを許容していること(消極的意志の体現)を指している。

 思うに、コロナは、人間による陰謀説ではなく、神の消極的な意志の体現であり、つまり、天罰なのだ。人間が神への畏怖の念を抱き、自省し、改心し、神の定めた道に戻るまでは、神は懲罰を下す手を緩めないだろう。

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