浮世離れ、花鳥風月の扉を叩こう

 2022年、新年の抱負といえば、少し浮世離れになろうと決めた。剃髪出家かといわれたら、まさかそこまで脱俗することはできるはずがない。むしろ俗に近づこうという意味で、花鳥風月の扉を叩くくらいだ。

我が家の庭に咲く花々

 世の中はいろんな気に食わないことがある。そういう外部を変えようと試み、いよいよ変えられないことに気付いたとき、煩悩というものが生まれる。仏教の教義によれば、煩悩は心を乱し智慧を妨げる悪なのだ。

 煩悩を取り除くために、自分の内部を変えなければならない。いってみれば、外部のすべてを達観解脱という境地に到達することだ。しかしそこまで本格的に取り組むなら、やはり修行が必要になってくる。 

 私はドロドロの俗人で、仕事柄徹頭徹尾の現実主義者でもあるから、修行などは無理。すると、残されるのは異なる外部、リアルな花鳥風月の外部に目を向けるという選択肢しかない。

我が家の庭に咲く花々

 花鳥風月は、2通りある。1つは物理的な「美」だが、もう1つは心の置き方、あるいはマインドセットとでもいおうか。たとえば、あるもの(人・物)を批判している立場であっても、あえて異なる利害関係や立場に立ってみる、視点、視野をそのままにしておきながら、思い切って視座を変えてみることだ。

 視座とは、置かれた状況によって条件づけられた形で、ものを見る座標のことをいう。 一般的に、視座を高くすることが善とされているが、その反対で視座を低くすることも必要でそれが花鳥風月なのだ。たとえば、岸田総理は社長でなく、課長の視座でみると、なるほど日本国民は課長を求めていたのだと納得する。

 さらに高低だけでなく、異なる軸にも立ってみる。たとえば、習近平の軸と視座からものをみてみると、なるほど「ゼロコロナ」政策には一定の合理性があるのだとこれも妙に納得したりする。
 
 花鳥風月。鳥になって花を眺めたり、花になって風を感じたりする。だが、単なる鳥なのに、月を目がけて飛翔してもどこかで落下し、地面に叩きつけられるのがオチだ。

 世界が美しいか醜いか、視座1つで決められる。

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