従来の暮しを返せ!昨日に戻りたい人々の反抗と愚民論

 政治学者で元東京大学総長の佐々木毅氏が、コロナ時代の政治を語るBSテレ東の「NIKKEI日曜サロン」。マイルドな表現を使いながらも、本質を捉えた指摘だった。

 大変分かりやすい内容で解読する必要もないが、それよりも興味をもったのは、別の部分。この動画に対する低評価数がやや多く、一時、高評価数と拮抗していたことだった。登録者数105万人のチャンネルで再生回数300回の時点でのデータで、最終的ではない。ただ、早い段階でこれだけのマイナス評価が出たことは何を意味するか、考えずにいられなかった。

 コロナで経済も政治も変わる様相を呈してきた。コロナが時代を変えたといっても過言ではない。一人ひとりの日本人は生き方を変えなければならなくなった。生き方改革に対する心の準備がまだ、多くの人々にはできていないように思える。「昨日にもどりたい」「従来の暮しを取り戻したい」としている人がほとんどではないだろうか。

 佐々木氏は、有事下の民主主義制度の非効率性を指摘し、政治体制を含めて政治のあり方の変革の必要性を訴えた。とりわけ、集権や私権制限といった部分は、民主主義慣れした国民には、響きがよくない。独裁体制から民主主義への移行は、万人受けだが、民主主義にいささか独裁的な成分を取り入れようとすると、大反対に遭遇する。

 民主主義による独裁

 ――私はこう表現している。統治や支配たるものは、一種の独裁である(独裁でなければならない)。いわゆる民主主義という政治体制は、これもある意味で独裁であり、数による独裁に過ぎない。ただ意思決定形成の過程は、少数の独裁より相対的公平性を有している。しかし、公平性は必ずしも合理性を意味しない。

 数を積み上げるだけの民主主義は危険だ。ルソーが提示した社会契約論の中核は、一般意志である。社会構成員全体に共有される意志、つまりアリストテレスの『政治学』で説かれた「共通の利益」(共通善)である。

 しかし、ほとんどの民衆は、この共通善を考えない、考えようとしない、考える動機も考える能力も持ち合わせていない。そういった意味での「愚民」であり、彼たちが考えていて関心をもっているのは、自分の利益、あるいは本能に触発される著名人の下半身的なスキャンダルとルサンチマンの発散だけである。

 愚民の数による暴走と独裁は民主主義の天敵であり、宿命でもある。愚民とは、決して「頭が悪い」から愚民といわれているわけではない。本質的にいえば、無知の知をもたなかったり、民主主義の濫用で民の権利を主張しても、義務に目覚めていない人たちのことをいっているのだ。

 愚民は、どんな時代にも、どんな国にも、どんな人種民族にも、どんな政治体制下にも、過去にも、現在にも、将来にも、存在し、存在し続ける。愚民を含めて民全体共通の利益、共通善を最大化することは、帝王学における第一義的な支配原則である。愚民のための愚民の統率にほかならない。

 ルソーは、一般意志の最適化を主張し、ひいていえば民主主義制度手続の精緻な止揚が必要だということである。その一環として愚民の暴走へのけん制機能が欠かせない。統率のとれない有事下では、最終的に社会全体の利益(共通善)が損なわれる。このことを防ぐために、一時的な集権や私権制限が必要だ。もしこれらが悪といわれれば、必要悪である。

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