上海ロックダウンの正当性、民主主義の自惚れと独善は許されぬ

 台湾の某TV番組で某台湾人評論家がこう語った(主旨)――。

 「上海ロックダウンは、独裁専制の酷さに上海人がどこまで耐えられるかを試すテストだ。その結果が明らかになった。彼らは部屋で鍋を叩いて抗議する以上のことはできない。奴隷根性が全身全霊に染み付いてどうにもならない。上海は中国屈指の先端都市で、中国人のなかでも上海人はトップレベルの知性を有している。それにもかかわらずだ…」

 その台湾人の言うことは理解できる。ただそれは民主主義国家の論理である。逆に独裁専制国家の内在的論理に少しも触れていないところから、論客の浅薄さが丸見えだ。

 民主主義の放任で、一人ひとりが言いたい放題、やりたい放題、権利を主張しても、義務を果たさない人はゴロゴロいる。80億人の地球で全員がこんな民主主義をやったら、地球は崩壊する。

 と、そこまでいかなくとも、コロナはどうだろうか。中国でも「Withコロナ」をやったらどうだろうか。米国で100万人が死んだというが、単純計算、人口比例で中国は400万人の死者が出る。想像してみたらいい。医療崩壊どころか、火葬業崩壊、ガンジス川ならぬ黄浦江に死体がゴロゴロ浮かぶ。そうなったら、西側世論はどうせ「独裁国家の大失敗」とまた叩くだろう。

 独裁専制国家の国民は「奴隷根性」ならば、民主主義国家の国民は「主人根性」と言っていい。どっちの根性がいいか、善悪の判断はできない。それぞれの論理があっての体制と統治スタイル。国民が反乱や暴動でも起こさなければ、とやかく他人に言われる筋合いはない。言ってもいい。だったら、西側民主主義も批判を受けざるを得ない。

 民主主義は民主主義批判を許さないというなら、それはすでに民主主義でなくなっている。

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