民主米国と独裁中国、善悪の評価ができない理由

 「中国のスパイ気球」事件で、アメリカは1つもスパイの証拠を出せないまま、一方的に残骸の捜索を打ち切った。何事も証拠が必要で、証拠なき断罪は自らの顔に泥を塗るも同然だ。

 アメリカには前科がある。イラク戦争は、同国が保有する「大量破壊兵器」を根拠に発動された。しかし、後になってイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、開発計画も無かった事実が最終報告で判明した。

 そんなことがとっくにわかっているのに、最先端の戦闘機を動員し、1発5000万円以上もするミサイルを発射して気球を撃墜すると。経済性も生産性も見込まれない。国民の血税の無駄遣いにすぎない。しかし一方、大衆はミサイルが気球を撃墜する瞬間のシーンを眺め、「くたばれ、独裁中国」と歓呼の声を上げる。

 要するに芝居だ。大衆に芝居を見せるのが民主国家の政治家の役割だ。民主主義は劇場時代だ。演劇は基本的に英雄役と悪人役、善悪の二極化だ。分かりやすいからだ。馬鹿でもわかるからだ。「民主」には「独裁」が対置され単純化されたように、実にわかりやすい。

 大衆は高価なチケット代(民主主義のコスト)を払って劇から得た陶酔はつかの間。明日も暗い1日、もっと暗い1日になろう。しかし特権階級は来る日も来る日も劇の上演で札勘に忙殺され、楽屋で高笑いする。民主主義劇場、本日も満員御礼。

 中国共産党は確かに独裁統治だ。独裁統治といえば、何でもやりたい放題というイメージが付きまとう。しかし、全く違う。中国建国後から文化大革命の終結までの間の独裁統治と今日の独裁統治はまず大きく違う。世界における中国の存在が大きく変わったからだ。世界2位の経済大国として野蛮な独裁統治をやれば、共産党は自滅する。

 高度経済成長した中国社会における独裁統治。人民は政治に参加する権利がない代わりに政治の結果に対して義務も責任も伴わない。一方、為政者は独裁故に、人民の実存(人間存在のあり方)を考えなければならない。「お前らは黙ってろ」というセリフの裏には、「すべての責任は俺が取る」という本質が存在している。

 西側社会の民主制では、その逆だ。国民が政治に参加し、口出しする代わりに、対等する義務を果たし、意思決定のリスクや結果責任も取らなければならない。「お前らは自分で決めて、自己責任を取れ」ということだ。つまり独裁制に対して民主制の場合、人民の実存は人民自身で考えなければならない。それができるのだろうか。

 今の日本人を見ればわかる。問題があれば、すぐに政治家に責任を転嫁する。なぜなら、無責任だからだ。権利はほしいが、義務や権利、リスクには知らんぷり。どうせ大衆は無責任だから、当初から大衆に責任を取らせないのが独裁専制の考え方だ。

 そういう意味で、短絡的に「民主が善・独裁が悪」と言えないわけだ。馬鹿大衆の政治力を弱体化――現今の民主制が独裁制に歩み寄ることも選択肢となり得る。ここ3年、私が西側民主主義の反省を含めて中国共産党の専制統治を見直し、再評価する原点でもある。

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