与党が腐った肉ならば、野党は腐った魚

● 与党が腐った肉ならば、野党は腐った魚。

 この与野党ダブル腐敗現象が民主主義国家でかなり一般化している。日本では自民党に票を入れたくない有権者は、まともな野党が見つからないから、困っている。台湾も民進党がダメなら、国民党もろくでなし。アメリカだって、民主党も共和党もほとんど同じではないか。なぜだろうか。

 結局、共通しているのは、票集めだ。票を取りやすい耳障りの良い美辞麗句の政策しか打ち出さない、打ち出せないからだ。誰が悪いといったら、民主主義下は国民が政治家を選ぶのだから、最終的責任は国民にある。国民も政治家もみんな自分の利益しか考えない。当たり前と言ったら、当たり前だ。

● 民主主義とリベラル

 問題は、民主制という仕組みにある。スペインの哲学者・思想家オルテガがその著作『大衆の反逆』の中で、「大衆が社会的中枢に躍り出た時代」に民主制が暴走するという「超民主主義」の状況を強く危惧し、それと対置する概念として「リベラル」を打ち出した。

 民主主義リベラルはなぜ対置の概念になるのか?彼が言う「リベラル」とは、自分と異なる他者と共存しようとする理性と冷静さ、寛容さといったものだ。独裁専制・権威主義との共存をも含む多様性に対する包摂力でもある。「大衆」が支配する今の超民主主義時代においては、そうした姿勢が失われつつあると、オルテガの指摘は今日の状況にぴったり一致する。

 民主主義の持つべきリベラルが崩壊する世界では、民主主義はもはや変質している。似非民主主義である。

● 大衆と貴族、凡庸と高貴

 オルテガが「大衆」という言葉を使っているが、「大衆」の対極にある存在を「貴族」と呼んでいる。これは決してお金で固まっているエリートやブルジョアといった意味ではない。過去から受け継がれてきた知性を尊重するという保守性、異なる主義や制度に対してイデオロギーを振りかざして闘うのではなく、対話し、共存しようとする忍耐力を指しているのである。

 オルテガが捉えた「保守的なリベラリズム」「リベラル的な貴族」といった概念も文脈も、今のい似非民主主義社会では、ほぼ理解されていない。無知の知を持たぬ大衆がルサンチマン感情全開して貴族を排除し、浅薄で傲慢な権利意識で固まった凡庸さが高貴さを排除し、民主主義を堕落させた。

 20世紀前半に書かれたことが100年後の今に、まさに真実と化し、民主主義を絶対善とする傲慢な大衆は、民主主義を破壊する元凶になりつつある。

 与党も野党も腐ったのは、それらを生み出す民主制が腐ったからだ。そして、私は予測する――。このままいけば、権威主義が民主主義に打ち勝つ。

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