「戦略」雑談、戦略氾濫して戦略なき時代の本質

 日本企業には、「戦略」の名を冠する職能部門やチームが林立している。「市場戦略」から「販売戦略」「物流戦略」「人材戦略」「海外戦略」「IT戦略」まで、何でも「戦略」の時代だ。ただ中身を見ると、これが戦略かと思わず絶句したりする。

 「人材戦略」というが、人事部の責任者にその意味を聞くと、責任者は「優秀な人材をいかに確保して、定着させるか」と答える。「では、優秀な人材とは何か」、「能力があって仕事のできる人」。「能力があって、必ず仕事ができるのか、仕事ができるから、必ず成果を出せるのか」「うーん、それはちょっと、必ずしも・・・」

 このように、入口で転んでしまう。結局のところ、「戦略」定義なき「疑似戦略」が氾濫する企業現場となった。さらに各部門のいわゆる「戦略」がバラバラで互いに衝突する。部門利益や利権が絡んでいると、衝突が激化し、戦略どころではなくなる。最終的に調整が入って折衷案が取られた時点で、「戦略」が欠片もなく葬り去られる。

 昔、ビジネススクール時代のことを思い出す。入学してはじめての科目は、「企業戦略」。教授が冒頭にぶつけてきた質問は「戦略とは何か」。十数人の学生が回答したところ、教授がどの答えにも満足しなかったようで注文する。「幼稚園児にも分かるような言葉で表現しろ」

 4日間の「企業戦略」科目が終了したところで、結論が出た――。戦略とは、「やることとやらないことを決めることだ」。しかも、その順序が重要であって、まずは「やらないことから決めていくことだ」

 毎日のように経済紙に報じられているほとんどの内容は、経営者や企業が「やりたいこと」「やること」「やったこと」ではないか。その経営の意思決定を裏付ける数多くの「やらないこと」を知りたい。すると、「経済紙を鵜呑みにしないこと、そして、誌面の裏を読むこと」が読者の戦略になるはずだ。

 一般論に広げても良い――。メディアの偏向を非難しないこと、そして、偏向には矯正する力をもつこと。これが「やらないこと」と「やること」で、戦略だ。

 多くの読者や視聴者が偏向矯正の力を持っていれば、偏向するメディアは存続できなくなり、自ら偏向を是正せざるを得ない。メディアが政権を監視する存在だとすれば、国民がメディアを監視する存在だ。

 戦略なき企業も、戦略なき個人も、サバイバルできない時代だ。

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