<KL>NOBU【後編】~日本料理は日本人のための料理だけではない

前編から続く>

 過去のトラウマを引きずりながら、再挑戦を決意した私は「NOBU」クアラルンプール店に出向くことにした。

 乱暴な仕分けをすると、「NOBU」の料理は2分類できる。一つは、創作系で日本人からいえば邪道までいかなくとも、「非王道的」な日本料理である。もう一つはオーソドックスの王道系日本料理。

160212-1205-KL-NOBUNOBUクアラルンプール店、追加の寿司アラカルト

 まず、後者についていえば、まさに日本人が好む料理店が他にいくらでもあるわけで、料金的にも割高感すら持たれる「NOBU」は、競争的優位性があるとは思えない。10年前の「NOBU」について一日本人消費者としての感想を述べたが、その感想はいまでもそのままほとんど変わっていない。日本人消費者として王道日本食を求めるなら、おそらくオルタナティブがあまりにも多い。

 そもそも、 「NOBU」はそこをターゲットにしていないのだ。今回のクアラルンプール店で私ははっきりそう感じた。これは素晴らしい決断である。経営コンサルタントの立場から、これに大きな拍手を送りたい。

 「日本人を相手にしない」

 ――さすがに「NOBE」自身は言いにくいだろうが、私はそう直感した。明快なセグメンテーションは、すっきりしていて素晴らしい。もし、「NOBU」が多くの日本人消費者が喜んで求めるDNA的な「おふくろの味」、王道系の日本料理に固執していたら、おそらく今日の「NOBU」は存在しなかっただろう。

160212-1135-KL-NOBUNOBUクアラルンプール店、昼の「松久セット」

 「NOBU」の日本料理。和食に付着する郷愁的なフレーバーが感じられない。その代わりに、きらきら感が溢れときには官能的ですらある。日本に故郷をもたない消費者にそもそも感傷的な郷愁への共鳴を求めること自体がナンセンスではないか。

 日本料理は日本人のための料理だけではない。世界で何ら前提設定もなく、すんなりと受け入れられる日本料理にするために、脱王道もやむなしだろう。いや、脱王道でなければならない。邪道と言われても一瞥だにせず我が道をひたすら突進してゆく勇気と胆力も必要あろう。

 オーナーシェフの松久氏は、そもそも世界戦略を練り上げて打って出たわけでも何でもない。世界のあちこちでただ自身と家族を養うための糧を得るために、無我夢中になりときには野獣的な生存本能に頼って踏ん張ったに過ぎない。困窮、不運、失敗を一身に抱え込んだ人間で、そのしぶとい生命力がすべての苦難に耐え抜いた結果は、今日の「NOBU」の開花である。

 経営学やマーケティング戦略のセミナー、あるいは成功者の後付け的な体験談、そんな座学をする余裕などありはしない。ただただ、糧を得るためのハンティングを繰り返すだけ。苦難というが、人間は、苦に耐えられても、難に耐え抜くことはなかなかできない。失敗を受け入れる気迫と胆力は、生き延びようという頑強な生命力から生まれるものだ。人間の生命力ほど美しいものはない。

 松久氏自身の人生模様そのものが、「NOBU」のモチーフになっているような気がしてならない。

160212-1153-KL-NOBUNOBUクアラルンプール店、地鶏の陶板焼き

 私は「NOBU」のこういったいわゆる創作系の料理を見つめながら、あることに気付いた。もし、この料理を西洋料理として出したらどうであろう。和風あるいはオリエンタル風の西洋料理としても立派に通用するのではないか。そうした意味で、「NOBU」そのものを和にアレンジされた西洋料理店として規定しても問題なさそうだ。

 逆のパターンもあるだろう。たとえば、「ミクニ」というフランス料理店がある。それはまさに和を取り入れた洋食である。洋食に日本人的な郷愁感を取り入れられたところ、きらきら感が見事に艶消しされ、日本人客がセンチメンタルに大喜びする洋食に変身したのではないか。

 大切なことは、日本人が見た日本ではなく、外国人が見たニッポン、正確にいうと、外国人がイメージしていたニッポン、見たいニッポン、求めていたニッポンである。

 世界で知られる「ニッポン」を舞台とするオペラの名作「蝶々夫人」を創り上げたプッチーニは、何と一度も日本を訪れたことがない。あの舞台に描かれたニッポンは、いかにも幻想的ときには官能的であろう。だが、それを見て、いやそれは本物の日本じゃないと、いちゃもんをつけてリアリティに固執する人はいるのだろうか。食文化も一種の芸術である。それを忘れるべきではない。

 いま日本が力を入れているいわゆる「クールジャパン」もまた然り。私から見れば、目線はまだまだ、日本人的過ぎる。外国人が見たクールなニッポンとは何か、日本人が勝手に自己定義する前に、リアリティーの消去とリセット作業、ゼロベースの思考回路が断然不足しているように思えてならない。

 私が昨日書いた「NOBU」の前編に、フェイスブックでは、「(NOBUの味は)下北沢の創作和食居酒屋と変わらない」という主旨のコメントが寄せられた。それはまさに10年前の私の感想そのものだった。だが、下北沢の創作和食居酒屋はなぜ、世界の名店になれなかったのか・・・。

160212-1203-KL-NOBUNOBUクアラルンプール店支配人のSunagaさん

 海外で日本人を相手にする日本料理店は、全般的に下火傾向の今日である。日本人の消費力自体の相対的低下もあるなか、外国人富裕層の拡大はもはや看過できない。世界を相手にする日本料理店のあり方という命題と向き合って、様々な答えがあってもいい。伝統文化の伝承や固有味覚といった意味での王道、そして新世界を切り開くための非王道的な試行錯誤、様々な価値観が混在する世界の日本料理外食業界。熾烈な競争を勝ち抜き、生き残る条件とは何か。これもいろんな答えがあるだろう。

 10年前と10年後の「NOBU」。私には異なる景色が見えた。多面的にものを見る力をブラッシュアップし、固定概念を打ち破り、自己否定を続け、新たな世界を切り開いていく。これはもはや経営コンサルタントの職業的な宿命にとどまらず、厳しい競争社会で生き残るための生命力を構成する中核要素でもある。そう思えてならない。

<終わり>

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