バトゥパハの街、朝日を浴びる妙齢の美女と現代観光業

<前回>

 「バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊のある家々でつづいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている」(金子光晴『マレー蘭印紀行』より)

 訪ねたバトゥパハの町並みは古い。ペナンのジョージタウンやイポーの旧市街といった有名な古い町並みだが、あれは観光用にだいぶ改修や整備されただけに、「新しい古い町並み」といっていい。しかし、バトゥパハの町並みや建物は古いままで手入れされていない。古い建物の壁から伸び伸びと生えてきた植物たちが堂々と自己主張しているところ、「粗暴な精力」のみならず、女体のエロスすら感じさせる。

 「眠たい目をこすってベッドから起きる、髪の毛ボサボサで半裸な美女が体を伸ばす。カーテンから漏れた一縷の朝日を浴びる脂肪で際立つ女体線が妖艶なカーブに描き、光をはらんだ産毛が黄金色の密林と化したところ、命の歓びに満ちた瞬間が訪れる……」

 と、女体崇拝傾向のある金子のために、バトゥパハ紀行の続編を書くならば、こんな調子ではないかと、私は勝手に決めつけた。今こそ古びた、いや朽ち果てようとするバトゥパハの街は、ほぼ1世紀前に金子を迎え入れたときは、「袋小路も由緒もない新開の街」だったのだ。人間よりも数倍の時間かかろうという町並みの熟成が必要ならば、今のバトゥパハの街はまさに妙齢の美女ではないかと、私は思う。

 どこもかしこも、観光客に来てほしいという。観光客がきてお金を落とせば、経済が活性化する。観光客を誘致するためには町並みは手入れしなければならない。古い建物を古い形のまま、うまく内装のリノベーションをする。プロの建築家やインテリアデザイナーは機敏かつ巧妙に手入れしてくれるから、目覚めた半裸の自然体美女があっという間に、洗顔をさせられ、化粧を施され、美しい衣装を着せられ、そして決まったポーズで接客の場に立たされるのである。

 無論、黄金色に輝いた密林の産毛が隠され、朝日の代わりにスポットライトを浴びせられ、人工の光の下で輝くのは華美なドレスにほかならない。町並みのドレスアップにかかる投資はあっという間に回収され、連日押すな押すなとやってくる観光客はたかが化粧されたドレス美女と数枚の記念写真を撮るために、交通費やホテル代を惜しむことなく作業を素早く終え、満足げにこの街を後にする。

 写真撮影は絶対必要。エビデンスを確保するためだ。最近ついに購入代金のかかったフィルムの代わりに、デジタルカメラという文明の怪物が生まれた。タダほど怖いものはない。24枚や36枚撮りのフィルムをシビアに計算して使う必要がなくなった。パチパチと何十枚でも何百枚でも撮りたい放題。気がつけば保存容量が満杯だ。そこで増量やアップグレードで新機種の購入を勧められる。経済はこうして回るのだ。

 しかし、コロナがやってきた。観光が止められた。産業として成り立ったところでその悲惨さは言及するまでもない。一方、観光地、少なくともメジャー観光地になり損ねたこのバトゥパハの街は、相対的に観光業の損失が少ないはずだ。それが不運か幸運かは分からない。

 現地視察中に、大学の観光学の専門家もいた。バトゥパハの観光業をいかに成長させるかという学術の研究や実務の議論も盛んに行われていることだろう。一度原点に立ち返ってみよう――。

 「観光」とは何かだ。英語で観光する側を「Sightseeing」といい、観光させる側を「Tourism」という。一般的に産業としては「Tourism」、研究する学問としては「Tourism studies」と称しているが、その立ち位置は果たして正しいのか再考する必要があろう。マーケティング学におけるお客様目線という意味で、まず観光する側の「Sightseeing」を考えるべきではないだろうか。

 そして、「Sightseeing」の「seeing」の部分だが、「見る」だけでいいのか。もっと感受的な部分でいえば、「feeling」という高次概念を意識しなければならない。「seeing」と「feeling」は決して二択ではない。むしろマーケティング学の「セグメンテーション」という概念で市場細分化する対象になり得る。

 バトゥパハの街も然り。金子光晴がやってきた街だから、滞在していた建物だから、「Sightseeing」の「seeing」で見にやってくる。これも価値あると思うが、もう少し先へ進むと、世界が一気に広がり、深みも増す。ほぼ1世紀前のバトゥパハの街はどのような街だったのか、金子はどのような状態でやってきて、どんな目線でこの街を眺め、どう感じたのか、これは感受性「feeling」にしか頼れない。幸いにも金子が詩人であり、それなりの証跡を詩という形で残してくれたから、ある程度の参照物ができていると。

 ただ、金子光晴は生身の人間である以上、複雑かつ潜在的な好嫌傾向や利害関係、欲望、価値観、倫理観などなど、雑多な諸要素が絡んでいる。標準化された現代世界では、「反戦詩人」や「反骨精神の持ち主」といったカテゴリーラベルをパッパッと貼り付けて分類処理しがちだが、そう簡単ではない。世界も人間も複数の側面をもち、もっとグラデーションであるからだ。
 
<次回>

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