「マレー人は華人と競争できない」、マハティール氏の堂々たる「差異論」

 「マレー人は華人と競争できない」。マハティール元マレーシア首相は2月17日、同国サン・デイリー電子メディア主催のライブ対談で次のように述べた。

 「マレーシアでは、大多数のマレー人が貧しい。しかし大多数の華人は富裕だ。貧富の格差を解消する必要がある。これはゲームのようだ。それぞれの能力が異なるので、互いに助け合い、民族間の敵対関係を解消しなければならない。華人は4000年の優れた文化、知恵と勤勉さ、そして国際的競争力を有している。マレー人は華人と競争できない」(2021年2月18日付マレーシア南洋商報)

 マハティール氏が日本の元首相だったら、こんな堂々たる「差異」――「差別」と断罪されるだろう――発言で謝罪の1つや2つで済まされると思えない。日本の森元首相がこの発言を聞いた感想を聞きたい。

 しかし、ここマレーシアでは差別という捉え方はされない。強弱の区別・差異差別ではない)を認めることが、弱者救済や相互扶助の原点である。こう捉えられている。

 マレーシアのブミプトラ政策はマレー人優先政策としてそもそも、地元民であるマレー人と華人との強弱地位差(民族的差異)を認めたうえでの保護・救済政策だった。マレー系の人は教育や就職(特に公務員)から不動産購入まで華人に比べて数多くの優遇を受けている。

 たとえば、就職の優先権を1つとってもそもそも雇用機会平等の原則に反している。それでも政策が撤廃に至らなかったのは、弱者保護の原則が優先されていたからだ。労働法と同じ原理だ。労使の関係には強弱があってそもそも対等ではないからこそ、労働者保護が必要だということで、民法から切り離されて労働法は社会法として成立しているわけだ。

 「Lady First」も同じ。女性が相対的弱者であり、そうした男女のフィジカルな性差があってこそ、女性優先の必要がある。マハティール氏はマレー人と華人の間の強弱関係を如実に表現し、これを格差解消のための認識的基礎としたのは正当・正確であり、まったく批判対象に当たらない。そうした意味で、マレーシア国民が非常に理性的、現実主義的だといえる。

 マハティール氏の人種論はこれが初めてではない。氏の持論だ。私の過去記事『働かないマレー人は貧困であり続けよ、マハティールが鳴らした警鐘』(2019年09月16日)に詳細記述されているので、参照してください。

 差別批判が一種のファッションになりつつある。そうした中で、理性を失うべきではない。近代民主主義は人間に自由と形式上の平等を与えたものの、格差の解消をコミットしていないし、また解消は不可能である。そのうえ、諸種の差異や不平等を隠蔽し、しかも隠蔽義務まで課せられている。森氏は隠蔽義務の違反においては有罪だろう。

 不平等や格差のない世界は、あり得ない。あらゆる差異を認めたうえで、可能な限り扶助救済するのが、せいぜいできることではないか。そうした意味で、マハティール氏は現実主義者で優れた実務家である。(参考記事:『マレー人と華人の能力差、マハティール氏の「差異論」がなぜ素晴らしいか』

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