宗教と信仰の関係、有信仰・無宗教という極意

 宗教と信仰――。宗教の自由が禁じられても、信仰の自由は禁じられまい。一人ひとりがそれぞれ信仰を持てば、宗教は不要だ。

 宗教とは、信仰の標準化と量販である。人間には信仰が必要だ。一人ひとりがオリジナル信仰を持つのがベストだが、それができないから、産業としての宗教が必要になってくる。

 もちろん、宗教は正しいことをたくさん言う。ただそのほとんどが実現できない正論である。だが、実現できないからと言って軽視すべきではない。宗教は悪を抑制する意味で一定の役には立っている。

 宗教が次第に産業化する。産業化は利益を意味する。宗教産業の中を見ても、搾取が凄まじい。上層や特権階層は中下層を搾取し、教義に反する行為に及び、人生を楽しんでる。そういうのも珍しくない。経済界と違って宗教の中下層信者は、信仰という意味で自己否定はできないから最後まで搾取されるわけだ。

 私のこの宗教論に反発してくるのはおそらく中下層のほうで、宗教産業の上層部は宗教経営という次元で議論が深まるのみだ。もちろん、私自身も有信仰・無宗教者である。宗教施設の見学も聖典や聖書の研究も大好きだが、信教はしない。信仰があるから、信教する必要は全くない。

 宗教は、特定の偶像や聖典ないし教義を信者に提示し、説教する。それは、生身の人間が本能や欲望を抑制できないことを前提とした他律、いや正確にいうと他律をもっての自律形成が目的である。

 西洋人は「My God」(我が神)というが、それは「我に神なし」故の「神の提供・レンタル」である。もし人間には自ら律する「我が神」がいれば、宗教への神の外注は要らなくなる。

 宗教以前の信仰とは、神の内製化である。生身の自分と対話し、喧嘩するもう1人の自分が即ちその我が神である。

 我が神ができること、我が神と対話し喧嘩すること、そして我が神に負け、我が神に従うこと、最後に我が神の従僕になることが信仰の極意だ。

 私自身も道筋がようやく見えてきたのだが、まだまだ途上である。我が神の従僕になるまでの道のりが険しい。「信仰」とは「信じて仰ぐ」こと。後半が特に難しい。自分の敵は自分だというのも、生身の自分と我が神の戦いが熾烈だからである。

 宗教の極意は、宗教を不要とする信仰の自走である。

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