アメリカは、あなたの「思考の自由」を剥奪する

 長距離飛行の機内では、時間つぶしに映画鑑賞も悪くない選択だ。マレーシアから中国出張の機内なら、時間的に2本の映画を見る余裕がある。しかし、私は嫌気が差して1本の半分すら見終えることができなかった。

 ハリウッド映画のほとんどが、同じパターン――。正義が勝つ。アメリカが正義。ベトナム戦争の映画を観たら、ベトコンは誰もが人相が悪く、米兵はみんなヒーローで、正義のための勇敢に戦っていたと。間違っていないか、ベトナムを侵略したのはアメリカだったのではないか。

 われわれは、受けた教育からハリウッド映画などのエンターテイメントまで、すべてが「アメリカが正義」というふうにデフォルト化(初期設定)されている。映画はプロパガンダの有力ツールだけに、独裁専制国家も民主主義国家も同じように活用している。本質は同じだ。

 狙われるのは、大衆の「思考の自由」を剝奪することだ。

 「思考の自由」「思想の自由」は、まったく別概念である。論理的に、批判的に思考する自由がなければ、思想の自由にたどり着くことができない。思想は思考の結果であり、思考は思想の生産過程である。思考がデフォルト化されれば、歪んだ思想しか生まれないのだ。

 アメリカという最先端の民主主義国家は、「思想の自由」を標榜している。その裏をみれば一目瞭然――。大衆の「思考の自由」を奪う初期設定を入念に設計し、自国ないし他国の社会全体に実装し、しかも絶えずにバージョンアップしているからこそ、自信をもって「思想の自由」を保障できるわけだ。実によくできた仕組みである。

 自由とは、言論や思想の自由というが、アメリカは決して「思考の自由」を口にしない。西側社会のいわゆる学者・識者らをみてもわかるように、彼・彼女たちのほとんどがすでに思考の自由を失っている。思考は米式民主主義によってデフォルト化されている。

 民主主義=善、独裁専制=悪。――そうした単純化された二元論が大衆のデフォルト設定になっている。しかも恐ろしいことに、このデフォルト設定は、いよいよ世界のコモンセンスに定着し、民主主義国家のみならず、独裁専制・強権国家の大衆にまで刷り込まれている。

 だから、専制国家は堂々と独裁専制を自己誇示できなくなり、まずプロパガンダ面では民主主義に負けってしまう。「民主主義=善、独裁専制=悪」というのは、世界最大級のポリコレである。よく考えると、民主主義に悪はないのか、独裁専制に善はないのか。しかし、その議論を持ち出した時点で、まずレッテルを張られ、ポリコレ棒に叩かれるのだ。

 デフォルト設定は、その前提からはみ出す議論を抑止し、抹殺する効果がある。目的はたった1つ、民主主義(What)が善であれば、アメリカ(Who)も善となるからだ。「What」の掘り下げ議論を許さないこと、そして「What」と「Who」の同一化を印象付けること、これがアメリカの手口だ。

 「Who」「What」、特に注意しなければならない。結局、「親米(Who)」とか「反中(Who)」とか、すべて「Who」の世界である。国家運営から企業経営まで共通しているのは、「Who」(相手)をみて脊髄反射するのでなく、「What」(状況判断)をみて、「What」(国益・社益)を求めることである。

 日本の国益に照らして、不利益ならば「反米」もあり得るし、利益になるものなら「親中」も大いに結構だ。故に、外交政策ではまずは、「親日」だけがブレない原則である。

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