西側文明の崩壊、資本主義と民主主義の悪性共犯関係

 ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いた近代資本主義の起源――そこには禁欲と勤勉、内面化された宗教的倫理があった。しかし現代の資本主義には、その片鱗すら残っていない。倫理なき市場は、欲望と快楽の増幅装置に成り果てた。宗教的な自己規律が消え去ったいま、資本主義は自らを制御する手綱を失い、暴走する機械と化している。

 それだけではない。さらに始末が悪いのは、そこに「超民主主義」という病巣が共生していることだ。民主主義は、かつて責任ある市民の熟議と参加によって成立していたはずだ。だが今ではどうか。選挙とは「いかに票を集めるか」のゲームと化し、政治家は票田の歓心を買うため、権利と利益のバラマキを競い合う。「義務」や「公共の利益」を口にした瞬間に落選する。それが現代民主主義の病理である。

 この構図は、資本主義と民主主義による「悪性の乗り合い」だ。市場は利益のために大衆の欲望を煽り、民主主義は票のために大衆の権利意識を煽る。双方が互いを正当化しながら、暴走を加速させていく。こうして形成されたのが、「脱プロテスタンティズム資本主義」と「超民主主義」という双頭の怪物である。

 しかもその大衆、すなわち「凡庸なる多数」は、オルテガが警告したとおり、自らを省みる力を持たない。声が大きい者、被害者を装う者、承認欲求に取り憑かれた者が「正義」を名乗り、公共空間を蹂躙する。そこには自律も責任もなく、あるのはただ、自己の感情と権利を無限に正当化するナルシシズムだけだ。

 宗教だけではない。プロテスタントもカトリックも、もはや西洋社会を統制する倫理的な力を失って久しい。宗教的価値観が消えたあとに残されたのは、文化でも伝統でもない。空虚な多様性と、無限に拡張する「自分らしさ」という名のエゴイズムだ。

 その一方で、歴史を顧みれば、独裁と権威の統治体制は、資本主義や技術を吸収しながら柔軟に進化してきた。現在の中国やシンガポール、中東諸国の例を見れば明らかだ。西側のように制度疲労で立ちすくむことなく、強権で秩序を保ちつつ、経済と社会をコントロールしている。少なくとも、制度が制度として機能している分、はるかに健全だ。

 加えて、地球環境は限界に達し、資源は枯渇し、人口は不均衡に爆発している。そうした物理的制約の中で、なお「もっと自由に、もっと豊かに」と叫び続ける西側社会は、もはや妄想の域にある。欲望を制御せず、制度は機能せず、資源は尽きていく――このままでは、暴走列車は崖から落ちるしかない。

 倫理を捨て、責任を拒み、制約を否定した資本主義と民主主義。かつて人類の希望とされたこの二大制度は、今や互いに手を取り合い、自壊への道を突き進んでいる。制度疲労という言葉では生ぬるい。これはもはや、文明の末期症状である。

 では、再生は可能なのか。もしかすると、答えは「ノー」かもしれない。少なくとも、今の西側的価値体系のままでは無理だ。新たな倫理、新たな制度、新たな秩序、新たな人間観――それらの根本的な再構築なしに、次の時代は来ない。来るべきは、制度改革ではなく文明の総取替えなのである。

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