彼岸と此岸、マーラー9番を聴きながら・・・

 土曜日は今月二度目のコンサート。マーラーの交響曲第9番(マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団)。

160124-1440-KL Twin Tower コンサートホール

 マーラーといえば、クラシック音楽中の難関として知られている。とにかく難解なのだ。でも、よく考えると、日本人は本当に勉強好きというか、職人気質というか、何でも「学習」を前提にしているから、「理解」に対する執着が出てくるわけだ。音楽は学問ではないし、芸術も技術ではない。理解する必要はないと私は思う。

 私は楽譜すら読めない音痴なので、まず音楽の素材が無に等しい。どうしても理解というのなら、それは私が勝手に自己流に音楽を解釈するだけの話になる。それだけでいい。自己流の解釈や理解の世界に陶酔すれば、それでも素晴らしいことではないか。
 
 マーラーの9番は、「死」というテーマに貫かれている。哲学の晦渋さが付きまといながらも、ところどころ美しい旋律が躍り出る。特に第4楽章のアダージョ、弦のハーモニーは実に美しい。死の暗黒とのコントラストがあまりにも強烈で涙が止まらなくなる。死後の天国、彼岸のイマジネーションよりも、人生過ぎ去りし思い出の甘美さに耽るものと私はそう感じた。

 無常。生死を諦観する。宗教観に満ちた死の世界と対峙する人間はいざ自問する。彼岸の世界は果たして存在するのであろうか。私自身は少なくと今現在、宗教を信じていない。哲学で最終的に解釈できないものを一括りにして、宗教の域が設けられたに過ぎないと、私は不謹慎ながらそう考えている。いや、それが必要だと思う。解釈できないものに無限にクエスチョンマークを打っていくわけにはいかない。

 ならば、ある意味で自分なりの答えを用意してもいいだろう。哲学で解釈できないものに、既存の宗教に頼らずに自分なりの答え、いうならば「自己宗教」があってもいいのではないかと思う。私は、死後の世界のディテールにまったく興味がない。死を恐れないといったら嘘になるが、死という個体の消滅に直面しているからこそ、より死を意識しながら生きるべきだと考える。

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