ペナン食い倒れ日記(12)~「日本新路」に立って進路を見つめる

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 第7ラウンド前半戦。8月15日(水)午前のブランチは、茶餐室めぐり。

 茶餐室(チャーチャムセッ)。香港では、「茶餐廳」(チャーチャムテーン)と言われているが、要するに麺類や粥類などの軽食と喫茶を兼ねた飲食店のことだ。中国南方特有の飲食業形態であるため、北京語でなく広東語表記とする。

 エディソン・ホテルが位置するリース・ストリートから南西方向に歩き、ジャラン・ペナンに合流して1つ目の交差点の左手には、「Lorong Kampung Malabar」という小さな通りがある。面白いことにその中国語の漢字表記はなぜか、「日本新路」になっているのだ。

 英語名の「Malabar」はもともと東インド会社統括下のインドの地名であって、ジョージタウンのこの界隈は要するに「インド人街」だったのだ。1788年の大火災によってほとんどのインド系の商業施設が焼失した後、再建されることなく、日本人と華人が移住してきた。そこで「日本人街」が出来上がり、福建語で「Jitpun Sinlor」(ジップンシンロー)と呼ばれ、漢字表記も「日本新路」になったのである。

 当時はこの界隈の日本人コミュニケティがかなりの規模に成長し、売春宿や雑貨店、薬局、ホテルなどといった施設も続々とできた。ついに1915年に日本人会がペナンで発足し、日本人コミュニティの管理と利権保護に乗り出した。

 史料によると、1910年当時の統計では、ペナンに207人の日本人が暮らしていた。その半分以上の日本人(女性)は実はいわゆる「からゆきさん」として売春にかかわっていた。今日になって娼婦や売春業たるものが社会の底辺や闇の部類と見なされているが、歴史的な目線を持てば、人間は生存維持のために行われるあらゆる営みも道徳的な批判を受けるべきではないと、私は考える。

 歴史を後付け的に結論付けることも、後付け的な正義論を振りかざすことも簡単だが、それがはたして建設的といえるのか。戦争の一件もまた然り。歴史の推移とともに、世界が変わる。様々な価値判断の基準も変わる。変わった尺度で過去を評価することにはそれなりの意義はあるものの、その際は必ず「その当時」という相対的な立ち位置や目線を持つ必要があるだろう。

 山崎朋子氏の「サンダカン八番娼館」は映画化もされ、広く知られているが、しかしながら同じマレーシアにありながら、ここペナン島のジョージタウンにある日本人街は大きく注目されることもなく、静かに歴史の彼方に埋もれてゆこうとしていた。

 異国の地でどんな職業に就こうと、数え切れぬ苦難と屈辱に耐え、強く強く生きてきた先人たちに敬意を表せずにはいられない。1世紀経ったいま、日本人は自らの進路が定まらないまま、新路どころか迷路に迷い込んでいるように思えてならない。そういうときだからこそ、原点に立ち戻って、何かを見出そうではないか。

 「日本新路」よ、ありがとう。

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