【Wedge】セイコーウオッチ上海殺人事件、日本人幹部も殺されそうになった原因とは?

 セイコーウオッチ上海現地法人であった殺人事件の確定判決が出た――。殺人犯の方偉南(以下、「方」という)には、一審で下された死刑2年執行猶予の判決が確定された(中国では現在二審制が採用されている)。殺人犯罪に厳しい中国で「故意殺人罪」とされた案件としては、異例の軽い刑といえる。

● 日系企業の危機管理能力の欠落

 この事件について、産経新聞が2016年4月25日の紙面で、「中国進出日系企業従業員の事件に衝撃 社内の情報収集限界露呈」という記事を掲載し、私に対する取材内容も含め報道した。

 事件について簡単に説明すると、セイコーウオッチ上海現地法人(以下、[セイコー公司」という)のオフィスで2016年3月28日、58歳(当時、以下同じ)の中国人従業員の男が管理職の33歳の中国人女性の頚部を切りつけて死亡させ、近くにいた29歳の中国人女性にも顔面や腕などに大けがを負わせるという殺傷事件が起きた。在中日系企業の場合、労働紛争やストライキ、従業員不正などの事件はよくあるが、さすがに殺人事件となると、現地の日本人社会にはただならぬ衝撃が走った。

 仕事上のトラブルが原因だが、殺意を芽生えさせるほどのトラブルは相当重大なものだろうし、また時間的な蓄積もあっただろう。これを会社の上層部は事前にまったく把握していなかったのか、それとも把握していながら適正な対処を怠ったのか、日常的な労務管理上のリスク察知・予防制度は機能しなかったのか、大惨事を未然に防ぐことは本当にできなかったのか……。

 当時上海在住だった私は、現地日系企業向けのセミナーで、この事件を労務管理の事例として取り上げようとメールで告知したところ、セイコー公司の弁護士からすぐに警告文が会社宛てに送られてきた。まだ取り調べ中ということで、無責任な発言には法的責任を覚悟しなさいといったような内容だった。

 殺人事件はすでに現地のテレビや新聞によって報道されており、公開情報である以上、私は経営コンサルタントの立場から仮説を立てながら、経営・労務管理面のリスク管理策を語るだけで、警告される筋合いはないと考え、その旨の回答文を会社の弁護士から送り返した。セミナーは中止することなく、予定通りに開催された。

 セイコー公司には危機管理のマニュアルがほとんどなかったように思える。ローカルのテレビ局が事件発生の直後に現場に駆けつけると、なんと(殺害された)被害者・黄さんの夫が取材のカメラに向かって、「妻は犯人の上司。会社は彼(犯人)と労働契約を更新しない、解雇することで、彼は感情的になったのかもしれない……」と言い放った(上海TV「新聞総合」ニュース番組)。社外の第三者がなぜ、内部事情をそこまで知っていたのか。しかも、取り調べの前にもかかわらず、無責任な発言を連発している。企業側のリスク管理、危機(クライシス)管理がずさんだったと言わざるを得ない。

 だが、これはセイコー公司に限った話ではない。似たような事案はほかにもたくさんある。また別の機会に紹介したい。

● 「衝撃の事実」を次々と明かす判決文

 事件から2年以上経ち、ようやく殺人犯に判決が下された。早速判決文を入手して読んでみて驚いた。当時、殺害された被害者・黄さんの夫がテレビの取材で語った内容はほとんど事実であった。しかも、それだけではない。

 中国政府が直轄運営している「中国裁判文書網」で公開された本事件の判決文「上海市第二中級人民法院刑事判決書(2016)滬02刑初72号」(以下「判決書」という)に基づき、その一部を抄訳しながら仮説を立て、解説・分析してみたい。(判決書原文に記載された実名もそのまま転載する)。

 証人陳某の証言(判決書第3項):「・・・(中略)3月21日黄某と方は、黄某が方の仕事を調整することで争うことになった。そこで、方は日本側上司の高橋浩一に直訴した。3月23日、会社は方に解雇を通告し、黄某は方の修理中の腕時計を取り上げた。その後の2日間は方が欠勤し、3月28日に方が出勤したところで事件が発生した」

 殺害された黄さんは、方の直属上司であった。解雇直前に、黄さんは方に異動を命じた。中国ではよく解雇対象となる従業員に、格下げ的な業務異動をさせることがある。退職に追い込もうとする意図は理解できるが、精巧なアプローチでないと逆効果になる。黄さんは異動を言い渡すだけでなく、修理中の腕時計を取り上げるなど、性急かつ乱暴なやり方だった。日本人上司に命じられてやったのか、それとも日本人上司の意図を忖度して手柄を見せようと自発的にやったのか、知る術はないが、黄さんのアプローチそのものは間違っていたと言えるだろう。

● 重病の母親を介護するため休みを取って解雇

 証人沈某の証言(判決書第4項):「・・・(中略)沈某が知るところによると、方と黄某は仕事上のことでもめていた。方は最近高齢の母親を介護するためによく休みを取るようになり、そこで黄某は彼と面談し、業務異動を命じた」

 証人高某の証言(判決書第7項):「高某はセイコー公司行政部副経理(訳注:総務部次長または係長相当)である。方はセイコー公司の契約社員であり、契約は年1回更新することになっている。契約は2016年3月31日付で期間満了。2016年2月、会社は方と契約を1年更新する意向があり、更新に応じる意向の有無を尋ねる社内メールを方に送った。方は更新したいとのメールを返信してきた。さらに3年の更新を希望していた。方には高齢の母親がいて、重病を患い半身不随で臥床していた。さらに3月から病状が重症化し、方は母親を介護するために度々黄某に休みを申請していた。…(中略)(訳注:休みのことなどで度々揉めたことがあって)会社は内部安定の目的で、最終的に方と労務契約を更新しないことに決めた」

 重病を患い半身不随で臥床していて、しかも重症化した老母を介護する。そのための休みを許さず、さらに解雇に踏み切るとは、さぞかし信じ難いことである。この解雇はなんと、会社の内部安定が目的だったというのだ。現地人の中間管理職である黄さんが自らの意思でそう決断したのか、そもそも彼女にそんな権力があったのか。疑念は日本人上司に向けざるを得なくなる。

● 危機一髪!日本人副総経理に向けられた刃

 証人高橋浩一の証言と調書(判決書第5項):「高橋浩一はセイコー公司副総経理である。2016年3月28日14時20分ごろ、高橋が会社に入ると、受付の前に血を流している者が倒れているのを目撃した。その時、従業員の方は刃渡り約23センチのナイフを持って傍に立っていた。方は高橋を見るや、高橋に襲いかかり、その左頚部にナイフを刺そうとした。高橋はナイフを避けながら逃げたため、負傷しなかった。警察が現場検証した結果によると、高橋のシャツの左襟部分にナイフで切り付けられた痕があり、シャツの右袖に(訳注:他の被害者の)血痕が残っていた。高橋はシャツを証拠物として警察に提出した。方は2008年7月にセイコー公司に入社し、労務契約は1年に1回、4月に更新してきたが、2016年に会社は長期的な観点から、方との契約を更新しないことにした」

 真実は次々と明らかになる。セイコー公司の副総経理である高橋氏が事件に絡んでいた。しかも、犯人は高橋氏に明確な殺意を抱き、ナイフを向け、刺し殺そうと襲いかかったのだ。立派な殺人未遂ではないか。高橋氏が機敏に避けていなかったら、どうなっていたか。想像するだけで鳥肌が立つ。

● 裏切られたことで芽生えた殺意

 証明された事実(判決書第18項):「被告人方の供述と調書によって、次の事実が明らかになった。2008年、方はセイコー公司と労働契約を締結し、時計修理部で勤務を始めた。その後繰り返し労務契約を締結し、最後の労務契約の満期日は2016年3月31日である。黄某は方の勤務する修理部の副経理(訳注:次長または係長)である。2016年初、方は母親の病気で在宅介護するためにたびたび有給休暇を取った。それが黄某は不満だった。2016年2月24日、会社は方に契約更新の意向を示し、方もこれに同意した。2016年3月21日、休みのことで方と黄某は議論で争うことになった。このため、方は会社の副総経理である高橋浩一に直訴したにもかかわらず、高橋は方の釈明を聞こうとしなかった。これだけでなく、さらに方を腕時計予検部門から修理ホールに異動させた。会社の規定によれば、契約更新は2016年3月初旬に完了しなければならない。方と同じ状況の同僚は全員契約更新が終わったにも関わらず、(まだ終わっていない)方は会社が反故にしたと予感し、その根本的原因は黄某と高橋にあって、2人の邪魔で自分がクビを切られると悟った。2016年3月26日の週末、ついに、方は南京路の張小泉刀剪商店(訳注:ナイフ専門店)でナイフを購入した」

 3つの大きな問題があった――。

 まず、労働・雇用関係上の合法性の疑問。方が入社した当時に締結されたのは労働契約だったが、その後労務契約に変更され、しかも繰り返し更新する形になった。

 中国法の下では、労働契約と労務契約はまったく異なる性質の契約である。前者は労働法の適用だが、後者は民法適用になる。平たく言ってしまえば、前者は労働者が労働法の手厚い保護を受け、雇い止めも解雇も簡単にできない契約である。そのうえ方のケースはすでに事実上の無固定期間雇用(終身雇用の正社員相当)になっていた可能性が大きいため、そう簡単に解雇できないはずだ。ところが、後者の労務契約だと、労働者ではなく、請負業者の身分となる方は労働法の保護を受けられなくなる。

 労働契約と労務契約の本質的な違いは、指揮命令権の有無にある。労働契約は会社が従業員に対する指揮命令権を伴うが、労務契約では当事者双方に従属関係は存在しないため、会社には指揮命令権がない。だが、休暇の取得という一例からだけでも、セイコー公司は終始指揮命令権を行使していたことが分かる。方は会社の厳しい管理下に置かれていた。これは会社が自ら「偽装労務契約」を示唆するような事柄ではないだろうか。それが事実ならば、日本社会で問題となっている「偽装請負」の中国版になる。もちろん中国法の下でも違法である。つまりセイコー公司が方に対する解雇行為は、違法解雇である可能性があるということだ。

 次に、会社が契約更新の約束を反故にした不誠実さだ。会社は一旦方に契約更新の意向を示し、方に諾否を問うメールを送信した(当初から更新するつもりがなかった、そうしたメールも送らなかっただろう)。方もこれに同意した。その時点で更新手続は完了していたはずだ。この前提ならその後、会社が反故にしたことは、契約破棄にほかならない。契約は法的拘束力を持った中で行う約束で、当事者(会社)の申し込みの意思表示と相手側の当事者(方)の承諾の意志表示が合致して成立する法律行為であるから、契約破棄は不誠実な行為として非難を受けるだろう。誠実をモットーに海外でも評判の良い日系企業の名誉が毀損されかねない非常に遺憾な出来事である。

 最後に、日本人上級管理職である高橋氏が従業員(方)の釈明を聞こうとしなかったことは最悪といえる。裁判所でさえ殺人犯にも弁解の機会を与えているのに、従業員の釈明に聞く耳を持たないことはもはや、論外である。

 一連の事実から、方の殺意がいかに芽生えたかの背景が徐々に見えてくる。これが裁判官の心証と判決にも強く影響を与えたのだろう。

● 検察まで殺人犯に同情的だったのはなぜ?

 被告人(方)の弁護側は故意殺人罪に異議を示さないものの、「労働紛争に起因し、さらに会社側の明らかな過失によって被告人は情緒的な犯行に及んだ」とし、刑を軽くするよう裁判所に求めた。会社側の顕著な過失によって、被告人は心神耗弱までいかなくとも感情や行動制御能力が著しく低下したことを理由にした。

 判決理由は、以下のように記されている。

「・・・(中略)方は犯行後逃亡せずに出頭し、犯行事実を自供したことから、自首に相当する。方の家族は代わりに朱某(大けがを負った29歳の中国人女性)の経済的損失を賠償し、朱某の理解と許しを得ただけでなく、黄某の家族(訳注:遺族)への賠償金をも本裁判所に供託した。本事件の起因をも勘案すれば、方に対する減刑処罰は妥当と認める。被害者訴訟代理人の自首不相当意見および死刑求刑を支持しない。弁護人の弁護意見を支持する」

 これに関連して、刑事事件附帯民事賠償請求として、被害者の朱某は一旦提訴したものの、後日これを取り下げた。(参考:上海市第二中級人民法院刑事附帯民事裁定書(2016)滬02刑初72号

 確定判決が下された後、上海TVは監視カメラが捉えた犯行の一部始終の動画も入れながら、生々しい追跡報道を行った(上海TV「案件フォーカス」番組 ※【視聴注意】一部暴力シーンあり)。

 服役中の方は取材に応じてこう語った。「私はこの会社に入って8年で、2度表彰を受けました。私が所属する修理部、カスタマーサービス部で2度受賞しているのは、私1人だけです。他に受賞者はいませんでした」。なのに、1年後の定年退職を目前に彼は解雇された。

 同じ番組に登場した上海市人民検察院第二分院の白江検察官はこう感想を述べた。「彼(犯人)はこの仕事をとても大切にしていました。彼の奥さんは仕事がないし、お母さんは病気で危篤でした。家族の生計、重荷がすべて彼一人にかかっていましたからね」

 裁判所だけでなく、検察まで犯人にこれだけ同情的だったことは異例としか言いようがない。胸が詰まる思いである。

● 日系企業にとっての教訓

 最後に補足情報として、中国の刑法と死刑について触れておきたい。

 中国の刑法は、殺意をもってなされた殺人を「故意殺人罪」とし、最高刑は死刑。未遂でも、殺意の強さや犯行の悪質性などによって殺人罪が成立する。過失や注意不足などで人を殺す罪を「過失殺人罪」(日本の過失致死罪に相当)と定めている。全般的に日本よりはるかに厳しい法制度になっている。

 死刑を犯罪撲滅に対する実効性があると司法当局が確信しているため、死刑の適用が多用されている。中国は死刑執行件数を公表しておらず、正確な件数は明らかになっていないが、世界中で最も多いという説もある。

 そこで異例として執行猶予つきの死刑判決が存在する。何らかの理由で情状酌量の余地があると認められた場合の救済措置である。執行猶予つきの死刑判決を受けた者は、猶予の期間中に罪を犯さなければ減刑され、死刑を免れる可能性がある。さらに服役期間中に模範囚となれば、死刑から無期懲役、無期懲役から(有期)懲役刑に減刑される可能性もあるとされている。したがって、方は年齢的に考えて、生きて出所できる可能性もあるとみていいだろう。

 セイコーウオッチ上海法人社内で起きたこの殺人事件は、すべての在中日系企業、いやすべての在外日系企業にとって決して他人事ではない。個別事件を超えて、このような惨事が二度と起きないように、適正な人事労務管理、コンプライアンス、そしてリスク管理体制の構築が急務となろう。

 経営者としては、法令や労働契約上明文規定された義務だけでなく、労務管理上従業員に対する安全配慮義務といった信義則上の義務をも負っている。企業の経営者や幹部はその責任の重大さを一刻も忘れることなく、事件の未然防止に社内情報の収集、従業員のメンタル管理などに総力を挙げて取り組んでもらいたい。

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