「心」と「行動」と「成果」、平成の最終日に思うこと

 2019年4月30日、平成最後の日。明日から元号が変わっても、日本社会は変わるだろうか。

 平成の最後に読み終えたのは、Wedge編集部からいただいたこの1冊――『「目的思考」で学びが変わる~千代田区立麹町中学校長・工藤勇一の挑戦』。感想よりも感情が先走りし、悲しくて悲しくて涙が出てしまう。

 悲劇の主人公に涙したのではない。工藤校長はヒーローでもなければ、大発明したわけでもない。彼は当たり前のことを当たり前のようにやっただけだ。当り前のことが当たり前のようにできなくなった日本社会を見ているほど悲しいことはあるまい。

 本の題名に、「挑戦」という言葉が使われた。当り前のことを当たり前のようにやることが「挑戦」だとすれば、この社会がいかに当り前ではないか、いや、いかに腐っているかは手に取るように分かる。

 目的と手段の履き違え。工藤校長が批判している現象は、今、日本社会のいたるところにこびり付いている。様々な手段が目的化されている。何のためかも分からないまま、日々やっていること。これらは社会全体の生産性を低下させ、日本人の思考停止を引き起こしている。

 上辺の空虚な「和」。同調圧力が社会をコントロールする精神的独裁者になった。議論は「喧嘩を売る」悪とされ、封殺されている。来る日も来る日も変わらぬいわゆる「安定」に価値を置かれても、世界の激変を止めることは誰にもできない。そうした安定志向は希望的観測と自己欺瞞、いや妄想にすぎない。

「人の心なんて教育できるものではない。心の教育をやっている日本は世界に笑われている」。工藤校長は、学校の「心の教育」を痛烈に批判し、学校は「行動の教育の場」であるとの本質を突いた。私が付け加えると、企業は「行動の教育の場」ではない、「成果を評価する場」だ。目的と手段の履き違えだ。学校も企業も同じ。

「心」を取り扱うのは宗教であり、「行動」を育成するのは学校であり、そして「成果」を評価するのは企業である。決して乱暴に他者の域に踏み入れるべきではない。

「心」と「行動」という属人性(Who)よりも、企業はあくまでも属事性(What)にフォーカスすべきだと、私は一貫して主張している。属人性を取り扱う機関は学校までである。AIがどんどん浸透する社会における属人性はますます薄れる一方だ。

 何もかも「誰」(Who)という概念をまず持ち出すと、人格が絡んでいる以上、対立を避けるためにも、自然に議論から遠ざかる。このメカニズムから脱出できるか、日本人は厳しい挑戦に直面している。

 令和の新時代。日本社会は変わるだろうか。

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