【Wedge】守銭奴から民主主義闘士への変身、香港人はなぜ政治に目覚めたか?

 香港政府はついに「緊急状況規則条例(緊急法)」を発動し、デモ参加者のマスク着用を禁じる「覆面禁止法」を制定した。香港市民がすぐに反発の姿勢を見せ、抗議に乗り出した。香港の混迷は深まる一方だ。政府が何をやってももうダメ。市民側は「5大訴求(5つの要求)」の完全受け入れを頑なに求めている。「イエス」か「ノー」の回答を求めている以上、もはや交渉の余地はない。

● 中国が果たして香港を必要としているのか?

 2カ月前(8月中旬)に執筆した拙稿『香港問題の本質とは?金融センターが国際政治の「捨て駒」になる道』には「捨て駒」という言葉を使った。それがいよいよ現実になりつつある。これは香港の宿命なのか。

 「中国が果たして香港を必要としているのか?」

 ――関心をもたれるのは香港の「主」である中国の利害関係と立場だ。「中国が香港を必要としているか?」。この命題に出てくる「中国」とは誰のことか。主体をはっかりしないと、議論もままにならない。「香港が中国を必要とするか?」という反対方向の命題も然り。

 多くの報道では、「中国」や「中国政府」「中国当局」といった称呼を使っているが、それは誰を指しているかを考える必要がある。一般の民主主義国家の場合、選挙で選ばれた首脳や与党代表者が対象として注目されるが、意思決定をめぐっては与野党や与党内派閥の牽制があったり、あるいは議会での議論・答弁や議決などの手続も加わると、諸要素を総合的に分析しなければならない。

 中国は共産党の一党独裁ゆえに、その意思決定の過程はよりシンプルなものと考えられがちだが、それは必ずしも正しくない。一党独裁であっても決して一人独裁ではない。党内ではいろんな派閥や政治勢力、利害関係集団が複雑に絡んでいる以上、「主席」というポストの人間は意外にも意のままにならず、大変な苦労をしているのである。

 昨年(2018年)の全人代は、国家主席の任期規制を撤廃する憲法改正案を採択した。習近平国家主席は2期目が終わる2023年以降も続投できるようになった。権力の過度な集中を防いできた中国の政治体制が大きく転換し、習氏の独裁になるとする報道を多く目にしたが、それも必ずしも正しいとはいえない。

 党内勢力の相互牽制を解消するには時間がかかる。5年や10年はあっという間。やっと真の決裁権が整ったところで退任するとは話にならない。故に任期撤廃はある意味で合理性がある。いってみれば、独裁継続のための任期撤廃ではなく、名実ともに真の決裁権を手に入れるための手段である。

 中国国家主席の任期撤廃のニュースを聞いたトランプ大統領は、無期限で任期を務められることになるとしてこれを称賛し「われわれもいつか試してみなくてはならないだろう」とまで述べた。それはおそらくトランプ氏の本音だったと思う。政治的意思決定における取引コストの問題に悩まされてきたのは、習近平氏もトランプ氏も同じだ。

 繰り返すが、「中国」という一枚岩は存在しない。香港問題をめぐっても意思決定に一貫性が見られない。その背後にどのような当事者、どのような利害関係や力関係が絡んでいるかが見えない。

 したがって、「中国が果たして香港を必要としているのか?」という問いには、「必要だ」と答えながらも、「誰が香港を必要とするのか?」「どのくらい必要か?」「その『誰』にとって香港よりもさらに重要なものがあった場合、選択の優先順位とは?」といった問いが浮上し、場合によっては香港が「捨て駒」とされることもあり得るだろうという結論に達する。

● では、香港人が香港を必要としているのか?

 では、「香港人自身が香港を必要としているか?」という命題を考えてみたい。実はそれが今の香港を見る上で大変重要なポイントだ。もちろん「香港人とは誰のことか?」が前提ではあるが。

 まず、エスタブリッシュメントという層だけでも、いろんな利害関係集団が存在している。政治的な繋がりで北京と共同体をなしている「体制派」もその対立面に立つ反体制派も香港というプラットフォームを必要としている。財界も同じ原理だが、李嘉誠氏のような、資産ポートフォリオの再編で中国や香港からフェードアウトした強者もいる(参照:『香港の財閥地主を新たな敵に仕立てる中国政府の狙い』)。

 李氏にとってみれば、経済的にも社会的にも香港はあってもなくても困らない。むしろ、生涯を通じて香港との間に紡ぎ上げた繋がりを凝視しながら、この地に最後の足跡を残そうとしているのは、このセンチメンタルな老紳士である。香港を捨てたが、忘却はしない、愛情を持ち続けるという神級の人物である。

 次に、一般的な富裕層、あるいは中産階級の上層部。彼たちは「第二次返還」のつもりで移民や海外送金に走り、香港からの脱出準備に余念がない。この層は少なくとも身の危険を冒してまでデモに参加したりはしない。

 最後に、騒動に加わった香港人、その大半は若者。出世する空間も、海外移住する経済力もなく、社会の最底辺で辛うじて食いつないでいる若者たちである。日本にも、似たような環境に置かれた若者がいる。日本人の場合、「自己責任」という自由主義社会の原理に違和感を抱き、政治や社会の「不作為」や「放任」に他者責任を見出そうとしがちだが、これに対して香港人若者は、自由なき政治や社会の責任を追及し、自由を求める抗争に乗り出している。問題は同根ではあるけれど。

 人間が不幸になれば、必ず自分の外部(他者)に責任を求めようとする。「誰のせいだ」を問うという本能的な衝動だ。異なる政治や社会はその命題に、異なる「材料」や「根拠」ないし「答え」を提供している。

 仮説を立てよう。今の香港に完全な自由投票に基づく民主主義制度を導入した場合、これらの若者は幸せになれるかというと、答えは見えている。社会の底辺は消えない。底辺は常に抗争しようとする。もしかすると、異なる訴求をもつ異なる種のデモが行われるかもしれない。しかし、そのデモが過激になるにつれ、同じく「覆面禁止法」が施行されるかもしれない。

 「覆面禁止法」は何も今の香港に限った話ではない。ヨーロッパのオーストリアにもある。しかも集会やデモに限らずより広範囲の公共の場を対象としている。なぜオーストリアに問題がないのに、香港はダメなのか。その原因は民主主義社会の自由に対する制限と独裁社会のそれとの異質性にある。

● 守銭奴から民主主義闘士に変身する

 権力を監視する機能を有している民主主義体制とそうでない独裁体制。前者が公益を守るうえでの「不本意」な措置だが、後者は独裁的権力を発動した結果として解釈されるからだ。分かりやすくいえば、同じ「実体」であっても、民主的「手続」を経ているか否かで大きく変わるのだ。

 「手続的正義」が民主主義の核心的価値所在である。実体の正義や正当性を論ずる前に、まずこの手続的正義が前提となる。独裁政権や独裁者がいつまでも軽蔑される理由も彼らがこの近代社会の本質を無視したところから見出される。

 中国本土の共産党政権は中国人民に飯を食わせたという「実体」(事実)をもって、非民主・独裁という「手続」の欠陥を補おうとする論理もそこに立脚している。その逆、トランプ大統領が米国の国益に有利な政策という「実体」をいくらやっても、やろうとしても、民主的「手続」という関門がまず立ちはだかっている。単なる合理性からいえば、独裁が民主主義より優位に立つことも多々ある。

 話を戻すが、香港は元々英国の植民地であって、自由が保障されていても民主はなかった。政治に興味がなく、金儲けに没頭してきた香港人はなぜ今になって、突然民主主義闘士に豹変したのか?

 植民地時代の香港は確かに英国から民主主義制度を恵んでもらえなかった。ただ宗主国が民主主義国家であったため、少なくともしかるべき「手続」によって「実体」における自由が保障されていた。そうした環境の下で、香港人には民主というタブーに触れるよりもむしろ、保障された自由を利用して経済的利益を追求したほうが賢明だった。民主がなくても、自由があればいいと香港人が考えたからだ。

 しかし、返還後の香港を見ていると、どうも様子が違う。民主も自由も両方なくなっているのではないかと香港人が気づき、ついに怒りを爆発させる。中国本土の人はそもそも最初から民主も自由も与えられていなかった。それに近年の経済成長によって昔の貧困時代と比べて生活が劇的に改善されたこともあって、そうした現状に満足する人が多かったのも事実である。近時の香港騒乱で香港人の挙動を理解できず、批判的な姿勢を取る本土系中国人が多いのもこれに由来する。

 「珍惜香港(香港を大切にしよう)」。――「覆面禁止法」の制定を発表する林鄭月娥行政長官の後ろに掲げられたスローガンはいささか説教調で、反逆児には逆効果しかないようにも思える。若年層をはじめとする香港人は自分たちが大切にされていると思っているのだろうか。

 逮捕されてもいい、撃たれてもいいと玉砕覚悟の人たちの心理を、北京当局も香港当局も理解していないようだ。あるいは理解していても、政治的に適切な対応ができないのかもしれない。実に残念なことだが、今このとき、いかなる抑圧的措置も機能しないだろうし、反発をエスカレートさせるのみだ。

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