コカコーラ中国物語、なぜ山西人がコーラ飲まないの?

 コカ・コーラの買収計画は頓挫した。

 コカ・コーラが果汁飲料メーカーの中国匯源果汁(ホイユアン)を買収する案件について、商務部は3月18日、独禁法適用で買収計画を否決しました。

 ここ数日のメディアは、コカ・コーラ事件の一色です。

 コカ・コーラは、中国市場にとことん食い込もうとしています。その努力は半端ではない。随分前のことですが、私がセミナーでよく引っ張り出す事例があります。この際、紹介します。

 7年前の2002年のことです。(以下、当社『ERIS中国ゼネラル』2002年7月2日付レポートを引用します)

 山西省に暑い夏がやってきたが、今年もコカ・コーラは同市場で、一再ならず、一敗地に塗(まみ)れることが確実だ。たとえが適切かどうかだが、山西市場は日本の名古屋市、あるいは愛知県のそれを上回る閉鎖性を持つ。省都太原市の1ヵ月のコカ・コーラ販売量は北京市の1日の販売量にも及ばない現実は重い。

 なにしろこの地は太鋼気水という地場企業が一瓶わずか0.5元の炭酸清涼飲料水を販売して他を圧倒。勤め帰りのサラリーマンは、同2元のやはり地場ブランドの氷鎮迎沢ビールで、シシカバブー(串刺しで焼くヒツジ肉)をさかなに涼をいやす。加えて、これは声を大にして言える奇怪な事実だが、1.25リットル入り4元ほどのコーラをもったいぶって煮沸して飲む、世界でもまれに見る飲料文化が定着している土地柄だからだ。

 1999年、太原可口可楽(コカ・コーラ)飲料有限公司は赤字を計上した。2000年も前年に続く連続赤字、果たして01年も再び赤字。止まらない赤字にコカ・コーラはやむにやまれずに山西省のために続けざまに3人のトップの首をすげ替えた。コカ・コーラは全世界を制覇する戦略に勝ったが、山西省で厳しい試練を受けている。

 コカ・コーラは1993年、当時の軽工業部と合作備忘録を交わし、一挙に太原市を含めた全国10都市にボトリング工場を設立した。その後何度も、各校で学生や生徒相手の無料試飲など、巨費を投じた販促キャンペーンを展開しながら、まったくといっていいほど効果が上げられない。キャンペーンはしょせんその場限りのサービスとしか見られていない。ファンタやスプライトといった傍系商品も投入したが、これもだめ。前出の00年には1000万元もの損失を計上せざるを得なかった。

 褐色のコーラにクコとショウガを加え、煮沸して飲む飲み方が広まった理由には、やはりコーラが米国の、というより、もっと直截に言ってバタ臭い「毛唐(けとう)文化の侵略」と見るような風潮に起因しているようだ。作る側も、コカ・コーラは4度前後に冷やして飲むのがいちばんおいしいなどと強調しながら、スーパーなどでの販促でも、クコとショウガを小袋に添付して売って、それでようやく特売品がさばけるかどうかといったぐあいだ。

 2002年6月28日付中華工商時報は、かつて山西モンロー主義を貫いた軍閥・閻錫山(1883-1960)の鉄道狭軌化政策を引用して山西の特殊な市場性を説明している。

 閻は省内の鉄道を突如改軌しナローゲージ化。標準軌(軌間1435ミリ)の鉄道で網羅する省外から他勢力が侵入するのを防いだ。閻は、最後は蒋介石に従い、台北で客死するが、一定の期間、他の軍閥や中国共産党の勢力から完全に隔絶した「山西王国」を築いたことで知られる。同紙はつまり、コカ・コーラは山西の狭軌にはばまれていると指摘する。

 ある者は、山西市場を食卓上のフライドチキンにたとえて形容する。さほどのものではないが、捨てるにはちょっと惜しい――。しかし、コカ・コーラの太原市での清涼飲料水市場シェアは4%前後に過ぎない。内陸の暑い山西はなお静かなままである。

 さあ、買収計画が頓挫したコカ・コーラは、今後、中国でどのような展開を見せてくれるのだろうか。

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