ロシアやその支持者を罵倒して世界を変える人たち

 某A氏はそのFB投稿記事に次のように述べている(主旨抜粋)――。

 「ロシアが勝つとは開戦時に予想されており、むしろウクライナの善戦が予想外だった。ロシアの勝利に誇れる意味はない」。前半は「事実認識(事実判断)」、後半は「価値判断」。非常にわかりやすい。次からは矛先がロシアの勝利をワイワイ言っている「連中」に向けられる。

 「自国がウクライナ同様な酷い目に合わされることを知らない連中は、『力さえあれば何をしてもいい』ことを無邪気に肯定してしまう想像力の無さ、そして『勝ち馬に乗る』以外の処世を考えたこともない品性の下劣さ…」

 ここからは、他人の「想像力の無さ」を批判しながら、A氏は自身の「想像力」と「価値判断」を全開させた。

 その1、自国がウクライナ同様な酷い目に合わされるという想像。逆にウクライナが勝ち(ロシアが負け)さえすれば、自国は危険でなくなるのか?逆のパターンはないのか?反証も取り入れて複数のシナリオを描かずに、単一シナリオを「想像」で確定していいのか?

 その2、「力さえあれば何をしてもいい」を肯定する「連中」に対する否定・批判。「力さえあれば何でもできる」という事実認識と「力さえあれば何をしてもいい」という価値判断を混同し、「連中」は後者だと想像(想定)したうえで、価値判断に基づく批判を展開した。

 その3、「『勝ち馬に乗る』以外の処世を考えたことがない」と断じたこと。これは完全に「価値判断」だ。「勝ち馬に乗る」とは国際政治のなか、特に小国の存続や国益維持に必要な戦略だという「事実認識」を無視し、自分の価値判断で「品性の下劣さ」と断じた。

 これに加えて、A氏は、ロシアの所為を「卑劣」「無恥」とし、ロシア賛同者のことを「虚無・冷笑主義的で、非人間的で、救いようがない」とあらゆる道徳的非難を加えた。もちろん、これらもすべて「価値判断」である。

 価値判断は人によって異なる。それは問題ではない。ただ、価値判断で事実認識を変えることはできない。ロシアも「勝ち馬に乗る連中」も、みんな悪だ。ただどんなに罵声を浴びせようと、目前にある事実を変えることはできない。

 いや、変える方法はある。それは米国やNATOの派兵だ。なぜ、しないのか。米国はウクライナの犠牲をもってロシアを崩壊させようとしているが、自分だけはダメージを負いたくない。これは事実認識である。では、価値判断で米国のことをも道徳的に非難できるのか、もちろん、できる。

 世界を変える方法は2つある――。

 1つは、力による。もう1つは、解釈による強者は力で物理的に世界を変えるが、弱者は解釈で精神的に世界を変える。弱者は強者を悪として批判し、悪は地獄に堕ちるのだと解釈し、彼岸の勝者となる。

 悪は果たして地獄に堕ちるかどうか、それは彼岸(死後)になってみないと、事実認識ができない。生きている間は、強者の力による世界改変だけが物理的に認識できる。これらの道徳的善悪評価は、価値判断の領域であるから、人によってそれぞれ違っていいと思う。

タグ: