汚染水問題(4)~「科学」と「想定外」、中国に勝てない日本

<前回>

● 「科学」と「想定外」

 「科学的」とは?福島第一原発は、「科学的に」建設されたが、なぜあんな大事故になったのか。「想定外」だったからだ。「科学」にも想定外がある。それが「リスク」というものだ。「リスク」は事実にでなく、「仮説」に基づく。

 「科学」は、「想定外」が伴うが、当事者の意図的な「想定回避」もある。都合の悪い想定をしない。利害関係から、情報隠蔽したりもする。情報隠蔽を見破れない人が多いのは、「情報の非対称性」があるからだ。情報にアクセスできなかったり、プロでなかったりする人々が情報弱者になる。

 われわれほとんどの一般人は、原発についての情報弱者である。だから、インプットされる「科学」を妄信せず、自分の目線からいろんな仮説を立てて、リスク管理を行う。

 友人の医学者T氏のコメントを引用する――。

 「福島第一原発事故後の『健康に影響なし』という、科学的予測は、7000人の子供の甲状腺ガンという「想定外」で揺らぎました。小児甲状腺ガンの罹患率は、10万対1です。そうなっても、御用学者たちは『福島原発との因果関係なし』と言い放っています。東北地方のエンデミックとでもいうのでしょうか?」

 繰り返してきたように、「科学」には「想定外」あるいは「無関係」とされるケースがある。「科学」それ自体も、解釈に依存するものである。

● 科学の名を使った賭博

 「科学的に証明された」――汚染水の放出に巡って、やたら「科学」が濫用気味。科学の基盤は、「仮説-検証」。東電・日本政府が今までやってきたことは、これに照らして、「科学」の基本要件を満たしていないことが明らかだ。海洋放出以外の方法(仮説)は、まともに議論されていない。科学的でもなければ、民主主義の透明性も欠落している。

 「科学的に証明された」と言われると、なんだか正しい気がしてしまう。百歩譲って、たとえ「科学」であっても、100%正しいとの保証があるわけではない。科学というのはもともと、反証されることによって発展してきたもので、科学が言えるのはあくまでも「今の段階ではこれが正しいっぽい」というところまで。

 汚染水の海洋放出が間違っているという反証が出た時点は、もう軌道修正も何もできない。全ておしまい。海に流したものは二度と回収できない。これは一か八かの賭博。「殺されてみないと」式の検証であり、科学の名を使った賭博で地球規模の毒見だ。

● 「安全だ」と自分に言い聞かせる

 多くの日本居住者は、もはや、「安全だ」と自分に言い聞かせるしかない。反証を拒絶するならば、私の記事をスルーし、またはSNSでは私をブロックすれば簡単にできる。将来の検証で安全ならば、「立花って奴は煽ってたんだ」と私のことを嘲笑すれば済む。しかしそうではなかった場合、私は被害者のことを嘲笑することはできない。

 リスク管理という仕事は、それだけ嫌われるものだと、よく知っている。9割以上の人に嫌われる。「そうなったらどうする?」「そうならない」と跳ね返ってくるのが9割以上だから、議論にならないわけだ。

 ある日になって、もし、その「想定外」があなた自身、またはあなたの家族に起きた場合、どう思いますか?「科学」もその「解釈」もむしろ、無意味だ。もし意味があるとすれば、たった1つ――。それは「不幸」という結果にほかならない。
 
● お墨付きはでっち上げ

 福島汚染水の海洋放出に関するIAEA報告書にこう記されている――。「この報告書は、IAEAの観点を代表するものではない。またこの報告書を使用することによってもたらされるいかなる結果にも責任を負わない」。「お墨付き」とは、「権威者の与える許可や保証」(やっていいよ、責任は私が取る)である。「IAEAのお墨付きを得た」というのは、全くの虚構、でっち上げである。

 香港食品・環境衛生諮問委員会の委員長を務めるケネス・レオン・メイイー教授はこう指摘する――。「日本は海水サンプルのトリチウムレベルに関する報告書しか発表していないが、他の放射性物質や海底堆積物については放置している。放射線レベルが低いため、最初の検査では検出されない物質があるかもしれない。海流や重力の影響により、これらの物質が時間の経過とともに海底に沈殿し、濃度が高くなる可能性がある」。サンプリング調査対象の拡大と、第三者の検査受け入れ等は不可欠だ。しかし、その気配は見えない。

 ALPSという技術で処理した汚染水は、トリチウム以外の64種類の放射性物質はすべて除去されているという。それなら、堂々と第三者の検査を受け入れればいいのではないか。それが証明されれば、ALPSというマジックに近い技術は、「核」という世界における画期的な大革命にあたり、すぐにもノーベル賞にノミネートされるべきだろう。

 8月27日、福島原発の汚染水放出現場に初の外国人記者を受け入れた。取材はすべて東京電力のスタッフ同伴・監視下で行われ、記者は自由に録音や録画をすることも、携帯電話やコンピューター、ビデオ機器の持込みもすべて禁止されていた。コロナ起源とされる中国・武漢海鮮市場への外国人取材を彷彿とさせる。中国中央TVの取材では、東電は「海洋放出以外の選択肢を検討したことがない」と述べた。話にならない。

● 中国が悪い?

 汚染水問題の解決、最適解は何だと聞かれた。第一義的な最適解とは、最適解を探る議論の存在だ。民主主義とは、「実体」よりも「手続」の正義だ。海洋放出は、「実体」の最適解かもしれないが、「手続」の最適解が欠落している。分かりやすくいえば、「根回し」ができていない。

 アメリカがバックにいるから、強気だ。韓国も黙らされたから、平気だ。中国よかかってこい、という岸田政権は、アメリカに利用されているだけだ。漁業は日本のGDPの1%しか占めていない。中国が水産物を全面禁止しても大したことはない。ただそれが突破口にじわじわと広がることを想定しているのか?中国の「戦略」に日本が「戦術」で対応する。典型的な事例だ。

 SNSを見渡しても、「中国が日本よりもたくさんの量のトリチウムを垂れ流しているのだから」という「中国悪」に対する批判が後を絶えない。先述の通り、「量」と「質」の取り違え、日本政府のプロパガンダに洗脳された人たちである。百歩譲って、他人が悪事を為すから、自分も悪事をしていいと自己正当化することができるのだろうか。

 さらに百歩譲って、中国が日本の何倍も何十倍もトリチウムを海に流してきた、農薬まみれの農産物を輸出してきたのだから、なぜ日本政府は早い段階で中国からの輸入を止めなかったのか、今でも止めようとしないのか、説明がつかない。日本政府はそれだけ日本国民の食の安全がどうでもよかったのか、そもそも日本政府も中国と一味ではなかったのか。

 さらにさらに、百歩譲って、トリチウムはそもそもどうでもいい。適量なら食べても死にはしない。中国は単にそれを口実にいちゃもんを付けて、「政治的な意図」で禁輸措置を打ったとしよう。ならば、日本も政治的にやり返せばいいのではないか。国際政治とはそういうものだろう。どうしてもいうなら、WTOに提訴すればいいのではないか。なぜできないのか。

 日本は何もできない。すべてお見通しだ。それが今の日中関係だ。日本には勝ち目がない。

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