ブルネイ(12)~日本人にとってのブルネイ、均貧・均中・格差現象考察

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 小さな国ブルネイに僅か3泊の視察旅行で、今日で12回の連載にもなる。まだまだ続きそうだが、とりあえずひと段落区切りをつけようと最終2回分、ブルネイの全体的印象と感想を総括したい。

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 「ブルネイは世界でも屈指の金持ち国家」というが、それは国・国王と一部の特権階級であって、広義的な国民ではない。一般的な市民は至ってごくごく普通の生活を営んでいるし、市内を走る車もシンガポールや香港ないしクアラルンプールに比べて高級車の絶対数が断然少ない。他の東南アジア諸国と比較して唯一の特徴は、貧困層の少なさではないかと思う。

 社会的保障が付く、公務員を中心とする格差の小さな国、ブルネイ。これが非常に重要なポイントだ。ある意味で日本人が平均的な理想とする価値観に近いかもしれない。

 2010年6月朝日新聞社が発表した全国世論調査である事実が判明した――。

 「経済的に豊かだが格差が大きい国」と「豊かさはさほどでないが格差の小さい国」のどちらを目指すかでは、「格差が小さい国」73%が「豊かな国」17%を圧倒的に上回る。

 ――日本人は、総量の豊かさよりも、格差の解消と平等に価値が置かれたことである。同世代や同期入社の人から年収では倍ないし数倍の格差をつけられることに、違和感を覚え抵抗を感じる。一方、少数の特権階級が数百倍や数千倍の格差をもって、想像もできないような贅沢な暮らしを享受している現象はどうかというと、それは雲の上の人間たちで見えないだけに実感が湧かない。

 人間は心理学的に、「非日常的不平等」よりも、「日常的不平等」が受け入れ難いものだ。

 そうであれば、ブルネイは日本人が目指す国の理想像ともいえよう(イスラム教の部分は別として)。鳩山元首相いわく「日本人もブルネイに移住したいだろう」という仮説は成立することになる。

 だが、資源貧国の日本は逆立ちしてもブルネイにはならない。国土や領海に石油や天然ガスがぶくぶく湧いてくれれば、国民の共同財産になる。そこで、田中さんが頑張ったからと言って田中さんの庭からたくさんぶくぶく湧くし、中村さんが頑張らないから少なく湧いてあるいは湧かなくなる、そういうことはない。国土や領海内にぶくぶく湧く資源は国民の共同財産として均等に分配するのが理にかなっている。特権階級は自身を除外して、国民間に格差をつけないのが極めて当然の論理である。

 世の中の国・社会は、4つのグループに分けられる。均等に富む「均富」、均等に貧しい「均貧」、均等の中産である「均中」、そして問題の「格差」社会である。付け加えると、「均貧」も「均中」も、一握り少数の、雲の上にいる特権階級は一定の、時には絶大な格差をもって君臨している。ただ庶民にとってそれが身近にいないため、「非日常化」で処理されているだけだ。

 そこで、「均富」社会はほとんど実在しない。現に、「均貧」、「均中」、「格差」からの選択、位置付けと相互転化になる。中国は「均貧」から30年かけて「均中」を飛び越えて、いきなり「格差」社会に突入した。日本は戦後40年かけて「均貧」から「均中」へ、さらにその後30年かけていまは「均中」から「格差」への転化を遂げようとしている。

 日本人が望んでいるのは、「均貧」でも「格差」でもなく、「均中」なのだ。その「均中」状態の維持は、資源の存在や持続的成長を前提条件とするだけに、今の日本はこれらの条件をほとんど持ち合わせていない。

 ブルネイは今日にも、「均中」状態が維持できているのは、ひとえにぶくぶく湧き出る石油と天然ガスのお陰にほかならない。その資源が枯渇した日、ブルネイはどうなるのだろうか。

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コメント: ブルネイ(12)~日本人にとってのブルネイ、均貧・均中・格差現象考察

  1. 日本人が格差に反対しているというのは、かなり大雑把な表現ですね。また格差に反対しているから、努力したくない人と考えるのもあまりにも安直です。

    問題は格差がどこから生まれてきているか?ということだと思います。
    ・既得権を継承しているだけではないのか?
    ・不公平な競争が行われているのではないのか?
    ・競争の内容が適切ではないのでは?
    といった格差の原因や内容に疑問がもたれているのだと思います。これは資本主義への疑いでもありますね。

    昔のように汗水垂らした労働から生まれる格差はわかりやすくて、誰にでも受け入れられます。商売でも、勤勉だから成功したみたいなのは、わかりやすいんですよね。モラル的にも理解されやすいです。

    遺産を相続しただけなんてのは、昔からあまり尊敬の対象にならないでしょう。現在だと、資本の投資とも昔から反感の対象になりやすいですよね。利息太りとか資金運用とかは、経済学的に言えば、社会の発展に寄与している場合もある(そうでない場合もある)のですが、やはり疑いの目で見られやすいです。

    汗して稼いだものでない部分については、そもそもそんなに極端に差がつくものではないですから、格差についても不満をもたれにくいです。

    しかし、金融等、数字を動かして差がつくものは、受け入れがたいほど差がつく。金融だけでなく、組織を動かす場合もそうですね。大手の社長など〇億といった年収だけれども、そのお金は本当にその人だけに属するものなのかなという疑問が出てきます。社会システムの中に誤りがあるのではないかと。

    腐るお金の思想などにも近いですが、お金が数字だけで取り扱えるようになってから、格差が極端になって恒常化するようになりましたよね。数字であるがゆえに、脱税も容易だし、相続も容易だし、失われにくいです。お金がものである範囲の格差というのは受け入れやすいが、数字だけでなされる格差というのはわかりいし、理解されにくいということかなと思います。

    もちろん、数字になることによって大規模な投資も可能になるし、それが社会の発展に寄与するわけなんでしょうが、人間性としては受け入れにくい面があると思います。

    従って、日本人は特性として何でもかんでも格差に反対しているわけではなく、今の格差の内訳や原因に疑いがあり、結果として格差そのものに疑問を持つようになったと言えるのではないでしょうか?

    1. 大橋さん、おっしゃる通り、多様化した格差の中身、形成源泉・起因の問題が大きい。ご指摘のとおりです。既得利益や不当競争、格差起因の区分処理、この問題の解決はおそらくノーベル賞次元のものです。倫理面、法律面と運用実務面、制度面など錯綜に絡んでいます。ここで展開できないのが残念です。朝日新聞社の統計も総合的一般論としか取れていません。まさにそういう問題です。機会があればまた、別途パーツ的に取り上げたいと思います。

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