なぜ、人を殺してはいけないのか?

 「なぜ」を問うことが大事だ。「なぜ、人を殺してはいけないのか?」。私のロースクール時代のゼミで出された練習問題だった。私は「法と経済学」専門だったので、経済学の側面から論述しなければならない。

 私の論述を専門用語を削って分かりやすいものに置き換えると、以下になる――。

 1. 経済学のアプローチなので、「殺人は法律上、倫理規範上で禁じられているからだ」のような解答は零点である。あくまでも経済学の観点に立脚する。

 2. 法も倫理もない原始時代に戻ったとしよう。殺人は自由である。法律もない。警察もない。裁判所もない。殺人に何ら咎めもない。すると、人を殺してもいいというが、一番怖いのは人に殺されることだ。すると、自己防衛を考えるしかない。

 3. 「防衛」は効用をもつ商品になる。商品は、内製か外注によって手に入る。まず内製で考えよう。武器を調達して自分で自分を守るのは一番コストがかからない。しかし、睡眠中はどうするか、女性や高齢者、弱者の場合、病気のとき、問題が多い。

 4. では「防衛」を外注しよう。若くて強い男性を複数雇ってやらせたほうが効率的だ。せっかく防衛を外注するのだから、その商品(防衛サービス)は複数の人がお金(対価)を出し合って、共同購入したほうが経済的だ。ここから生まれるのは共同体防衛の概念であり、国家や軍隊の原型にもなる。

 5. 共同体による対外防衛はいいが、では共同体内部に殺人が起こったらどうするか、そこから生まれるのは警察の概念である。

 6. ここまでくると、ある結論が見えてきた。つまり、「人を殺してはいけない」というルールを作ったほうが効率的ではないか。人を殺すことにもコスト(違法コスト)をつけてやろうと。そのコストとは、「目には目を歯には歯を」という「刑法」の処罰手段と、殺人者の財産を没収して被害者の補償に充てようという「民法」の賠償手段だった。ここでは、倫理も法律も形を現した。

 こんな感じで、「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いに解答が導き出されるのである。

 でも、ちょっと待ってよ。自分が殺されても(死刑になっても)人を殺したいという人には、倫理も法律もなす術がない。安倍元首相を殺した人ももしかしたらそれに該当するかもしれない。自分が殺されても人を殺すとは、経済学的に説明できない。一番不経済な行動ではないか。

 そこで、行動経済学の出番だ。人間は必ずしも合理的には行動しない。伝統的な経済学ではうまく説明できない社会現象や経済行動を解明する新しい経済学である。それは機会のあるときにまた説明しよう。

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