階級社会の真実(12)~上層入り無理でも、下層脱出はできる

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● 下層階級からの脱出

 下層から脱出したいのかと聞かれると、大方の人は「どうせ上層入りなんて無理だから」と諦めたり、「上層階級なんか汚いところだ、行くもんか」と批判したり(酸っぱい葡萄心理の人が多い)する。

 上層か下層。ほとんどの日本人は、そういう単純二元論を刷り込まれている。下層脱出すなわち上層入りという考え方は必ずしも正しくない。下層脱出の瞬間に上層入りするとは限らないからだ。大切なのは、下層脱出なのだ。なるべく早く脱出したい。

 下層を脱出するには、財力が必要だ。財力が足りなければ、知力で補う。知力が足りなければ、サバイバルの生命力で補う。生命力が不足なら、あとは運力(幸運)に頼るしかない。もちろん、この4つの力は、複数あったほうがいいに決まっている。なかでも、知力は大切で、知力が財力を生み出すことができるからだ。では、知力形成のためにどこで何を勉強すればいいのか?

● 一般学校

 大方の親は、子供を良い学校に入れ、良い教育を受けさせようとする。しかし残念ながら、学校で勉強するのも、テキストや試験に出てくるのも、ほとんど、偽知識なのだ。一般学校の教育は洗脳型教育で、基本的に搾取される下層階級の一員になるための心得、つまり奴隷スキルしか教えてくれないのだ(参照:『階級社会の真実(2)~洗脳文化という仕組み』)。

 世の中はこうなっているのだ。これが善で、あれが悪。これをやりなさい、あれはやっていけない。つまり「べき論」「べからず論」だけを教えても、「なぜ」も「なぜを問う」ことも教えない。つまり、思考停止の教育である。そこからは従順な奴隷が量産され、上層階級のための再生産が円滑に行われるのである。

● 読書や実学講座

 では、成功するためのスキルを自ら学ぼう。読書や実学講座なら、実務に役立つ内容が勉強できる。と思ったら、実はそこにも罠がある。

 成功とは、その時、その場所、その人物、そのやり方、言ってみれば諸要素・諸状況の偶然たまたまの結合であり、はっきり言って幸運でしかない。たとえ松下幸之助や稲盛和夫は今の時代に生き、その当時のやり方でやったら同じ成功を収められたのだろうか。もしや、天才の彼らは別のアプローチを取り、成功を収め、そこから別の理論が生まれていたのかもしれない。

 故に、コンテキストがもっとも大切だ。松下幸之助や稲盛和夫の成功物語については、そのいわゆる単なる「論」や「説」ではなく、コンテキスト(文脈・脈絡)を捉えたうえで、丁寧に読み解く必要がある。結局、彼らの哲学の学び方、使い方を学ぶことになる。

 しかし、残念ながら、これらの「学び方」を教えてくれる本や学校は、ほとんど見ない。なぜなら、ニーズがないからだ。大方の日本人は、楽な学習に熱中し、内容が簡単で、分かりやすい、深く考えずに済む書籍や講座を好む。「要するにどうすれば成功できるのか、それだけ教えてくれ」という奴隷タイプが多いからだ。

 このような奴隷ニーズに応えるべく、いわゆるビジネス実務書や研修だけでなく、「100%成功するための〇〇××」「お金の引き寄せ法則」といった怪しいお金持ち講座まで氾濫している。さらに最近は、そうした講座の講師を育成するための講座まで出回っている。やめておいたほうがいい。お金持ちになる前に、無駄な教育費を吸い取られて貧乏人に転落するのがオチだ。

ビジネススクール 

 MBAなどの学位を取れる真面目なビジネススクールなら、高価だが、安心できる。果たしてそうなのか。私自身もビジネススクールを卒業しているが、正直言って過剰な期待はしないほうがいい。MBA学位を保有する失業者や失敗者はたくさん見てきた。

 成功の哲学や法則はあるのか?ある。それは、「天時・地利・人和」(孟子)に尽きる。前述したとおり、諸要素・諸状況の偶然たまたまの結合であり、「運」と言っても差し支えない。失敗に法則があっても、成功には法則がない。

 戦後日本の高度経済成長はまさに、「天時・地利・人和」3者の結合。その後、時代が変わり、まず「天時」が損なわれ、次第に産業の海外移転・サプライチェーンの海外依存で「地利」も失い、最後にいよいよ「人和」が崩れ始めた。だから、今の日本には国家として成功する要素は見当たらない。

 先日、某社会科学系の学会に出たら、某大学の教授が「日本企業の組織文化を海外現地法人に浸透させるための研究」を発表したのをみて、絶句した。日本企業がいつの間にか布教する宗教組織になったのだろうか。目的と手段の倒錯がいよいよクレイジーの段階に至っている。しかも、学問の世界で……。こういう国は衰退しないほうがおかしい。

● 実学よりも教養

 下層階級から脱出するために、実学よりも教養、何よりも教養の王である哲学を学んだほうが、断然効率が良い。

 実学と教養は、つながっているが、教養が親である。私は、20代にはビジネス書を読んで、30代後半からは教養のほうに転向した。あることに気づいた――。実学をいくら勉強しても自分には限界があるし、さらに世界が急速に変わっているから、せっかく身についた実学は、アップデートのスピードがとても追いつかない。しかし教養は違う。学習の効率がとてもいい。応用が効くからだ。

 私はプロの学者ではないので、純粋な学問のための学問の研究に興味がない。経営現場や人生現場に役に立ちそうな哲学や歴史、芸術を断片的に切り取りして実学分野の応用に当てている。学術の世界では、邪道と言われようと一向に構わない。

● 5つの自由、本物の上層階級とは?

 下層階級から脱出し、上層を目指す。その目的は何か?自由を得るためだ。自由は幸せの源泉である。思うに、人間には5つの自由がある――。時間の自由、場所の自由、金銭の自由、言論の自由、そして思考の自由。

 時間の自由――。自分で支配できる時間をもつこと。これは必ずしも拘束される時間を否定するわけではない。会社に出勤して拘束されても、やりがいがあって好きな仕事ができれば、それでいい。かといって、起業して一見時間の支配権を手に入れたかのように見えても、結局より多くの金銭の自由を得るために、時間の自由を犠牲にしているのでは、話にならない。時間の自由と金銭の自由の衝突である。

 場所の自由――。行きたい場所にいつでも行け、住みたい場所に住めること。これも金銭の自由に牽制される。基本的に仕事のある場所に住まなければ、稼げなくなる。となれば、旅の軍資金を失い、行きたい場所にも行けなくなる。私自身も住みたいマレーシアに移住するかしないかで、かなり迷った。マレーシアにはまとまったコンサル案件が取れないことを知っていたからだ。最終的に、「職住分離」に踏み切ったが、かなりリスクを抱え込んだ。

 金銭の自由――。これはもう言う必要もなかろう。ある程度の生活レベルを確保するために、一定の資産と安定な収入という2つの要素が欠かせない。お金がすべてではないというが、お金がなくても困る。お金は人間の呼吸のようなもので、人間は呼吸のために生きているわけではないが、呼吸がなければ、人間はそもそも生きていけない。さらにいうと、金銭の自由と他の自由とが互いに牽制し合っていること、影響し合っていることも無視できない。

 言論の自由――。言いたいことを基本的に自由に言えること。2つの不自由が存在する。まず、受動的不自由。独裁国家の大富豪であっても言論の自由はない。変なことを喋ったら、人身の自由まで奪われる恐れがあるから。次に、自主的不自由。人間関係や仕事の関係で、特に上司や顧客などの相手に言いたいことが言えない。言ったら人間関係が崩れ、出世も商売も成り立たなくなり、最終的に金銭の自由を失うからだ。

 最後に、思想の自由ではなく、思考の自由――。これはもう究極の自由であり、物事の本質を見抜き、自由な思考をもつこと。あらゆる常識や固定概念に縛られることなく、問題の解決に取り組み、自由獲得への障害を排除していくパワーの源泉である。思考の自由を得た時点で、人間は真の意味での自由の身である。

 この5つの自由を手に入れたところ、そこは上層を超えて、最上層階級次元である。

 私自身は各部門満点でないものの、ほぼ満足できる程度の時間、場所、金銭、言論という4つの自由を手に入れたが、思考の自由についてまだ道半ば。それ故、総合得点は100点満点中の80点くらいではないかと、自己採点する。自分の経験だと、総合得点50点ポイントを通過すると、かなり「自由感」を味わえる。

 最後に付け加えておくが、自由を得るには、相応の犠牲という対価支払いから逃げられない。人生は複式簿記である。貸借平均の原理が働く。失うもの、得るもの。借方と貸方の合計額は常に一致する。ある自由を得るために、別の自由を犠牲にする。これは、人それぞれの価値観で取捨選択が行われるのである。

 自由は素晴らしい。でも、高価だ。目指せ、上層階級を超えた最上層を目指せ!

<次回>

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